「普通」とは何か。自分が他人の目にはどう映っているのか。
「人の感性はそれぞれ違う。だから、普通が何かなんて考えても無意味だ」という意見は根強い。正当性もある。
だが私は、じっと人々と自分自身を見つめ続けた結果「普通」というものが何を意味するか理解した。それは確かに存在する。
ものすごく単純な話、その場において、大多数の無意識的な共通認識、これが「普通」である。
基本的に、無意識的な共通認識に疑問符が付けられることは滅多になく、当然意識の上に上がってきて自覚することも少ない。
日本国籍を持っている人が急に「私は本当に日本人だろうか?」などと考えないの同じである。「私もあなたも日本人」これが分かりやすい、一種の無意識的な共通認識であり「普通」の一例である。
そしてこれは、場によって変化するものである。東京での「普通」と大阪での「普通」は違う。「常識」とも違う概念。
あくまでそれは、無意識的で、習得するものでも感じるものでもなく、知らず知らずのうちに人間を内側からコントロールするものである。いうなれば欲求やトラウマに似た働きをするのが、この「普通」である。
そして、この「note」というサイトにおいても、ある程度その「普通」というものが人間の中で働いているのを私は感じた。そしてこれが働いているかぎり、常に人はこの「普通」を通してものを見るため、「自分の目」と「普通の目」の両方を無意識的に持ち、その中間を「自分の意見」として口に出す。
あらゆる「普通」にはひとつの共通点がある。対象が「普通」を理解しているかどうかの判断である。
「普通」から大きく逸脱したものを「奇妙」「異常」「不可解」と感じるのである。頭では理解できても、内在するひとつの「普通」が、それを許容するのを拒むのである。
その「普通」をどの程度持っているかは各個人によって異なるが、大体はその人間自身の「自分」の強さと反比例する。「普通」は無意識から私たちの意識を支配するが、同じように私たちの「自分」もまた無意識から私たちの意識を操ろうとする。そのバランスによって私たちの個人的な意見は産まれてくるわけだが……SNSというものは、人の「自分」を弱くし「普通」を強くする働きがあるように思える。
もっといえば「自分」が強い人間でさえ、常に「普通」を意識して、その枠の中で意見を言おうとするようになる。この点に関しては、心当たりがある人も多いのではないかな?
「みんな」が見てどう思うか、とか。「読者」が見てどう思うか、とか。全部それは「普通」の言い換えに過ぎない。
その場において、見えない共通認識はやはり存在し、私たちはそれに配慮しているのではなく、配慮させられているのである。
話の方向性を少し変える。
私を好ましく思ってくれている人たちがいる。そういう人たちの書く文章には、共通点がある。
「普通」が少ないのである。才能の大小はあれど、「普通」に対する意識が低いのである。
逆をとれば「普通」を平均以上に強く意識している人は、私の文章を読み続けることができない。
理由は前に述べた通り、私の文章が極度に「普通」から逸脱しているからだ。いや……私の精神の底には、別の時代、日本ではない別の地域での「普通」がたくさん入り込んでいるから、私の「普通」はあまりにも複雑で、全く別の「普通」なのだ。
潜在的な共通認識。おそらくそれは、自分が今までどのような人間と付き合ってきたかによって大きく変化する。
変わった人間とばかり付き合ってきた人間は、「普通」に支配される程度が低い。
同じような人間とばかり付き合ってきた人間は、偏った「普通」に支配されていることをよく自覚するが、逃れることは簡単にはできない。
三カ月ほどnoteを続けて、色々な人の文章を読んでみて、それを強く感じた。
人それぞれ別の「普通」を持っているが、その「個人的な普通」の多様さと、この「noteというサイトにおける普通」の一様さ。
このサイトでウケる文章は、この時代の「普通」を強く持ったまま「自分」を前に押し出している人。それが共感と感心を産む。
「普通」でありながら「個性的」であることが、求められているのである。
そして何が「このサイトにおける普通」かと考えてみた結果、分かったのは「テレビ」と「新聞」と「ネットニュース」の混合物たる「世間」である。驚くべきことに、この時代ではメディアと民意がほとんどズレていないのである! 民意にメディアが合わせているのか、それとも民意がメディアに従っているかは分からないが、ともあれこれらは私が思っていたよりも密接な関係を持っているようだ。
noteで求められていることは、メディアが言えないような「自分の意見」を、「普通」に対して配慮しながら言うことなのである。(売文ビジネスは除くよ? あんなんはそもそも意見とは言えない。文章とさえ言えない)
ともあれ、私はこの時代の「普通」が何なのかちょっと理解しはじめた。当然、全く趣味の合わない異文化に触れたときのごとく「きっも」と思っている。知れば知るほど誤謬だらけ、矛盾だらけ。カニバリズムといい勝負。
迎合する気はない。でも私には私の「普通」があり、それを理解してもらいたいと思っている。それがいつか、どこかの場においてひとつの共通認識となれば、きっと楽しいだろうなと思っている。
私はそもそもこの時代の「普通」にあまり興味がないのだ。
ちょっと脱線。
この話の中でユダヤ教のことを想起した人いる? いてほしいなぁ。
まぁつまり、そういうことだよ。旧約聖書という共通認識のもと時代を超えて先祖の「普通」を守り続けた民族、それがユダヤ。「普通」は別に悪いものじゃない。ただそれを……どのように扱うかが重要なんだ。
さてこんな風に方向性も何もなく、ただ自分の思いついた仮説を適当に並べてみたわけなのだけれど、どう思います? 私の感覚はどれくらい当たってますかね?
私の想像の中の「日本人的普通」は「難しくてよく分からない」って言ってます。「長い」とも言ってます。
ただここまでちゃんと読んでくれた人はきっと、その人自身の別の「普通」を持っているのだろうなぁと、勝手にそう思ってます。私、そういうの大事だと思ってまーす!