私は幸福を定義する
「幸福は定義できない」なんていうのは、思考の放棄であり、我々概念の探求者にとって厭うべき態度である。
今回は事後報告という形で、探求の成果を発表したい。
私は、幸福という概念を定義することにした。幸福の条件を、見つけ出すことに成功した。
幸福とは何か。
幸福とは「現状の肯定」である。
つまり「これでいいのだ」というのが、長らく幸福とされてきたものの正体なのだ。
もちろんそれは言語としての「これでいい」でもないし、妥協としての「これでいい」でもない。そうではなく、生物として、動物として、「これでいい」という感情、判断、思念こそが、幸福の正体である。
そしてそれには、「強い」「弱い」がある。一個の人間の中に「強い幸福」と「弱い幸福」がある。
幸福とは、一時的な生物的判断である。つまり私たちが「眠い」と感じる時、それは感情である同時に理屈でもあり、本能でもある。私たちに「眠い」と思わせるのは、私たちの健全な体であり、体が体に対して命令を送っている形である。その結果私たちは実際に「眠い」と口にしたり、寝るための準備をしたり、ぼんやりしたまま寝床に向かったりするのである。
私たちの生物的判断が「寝よう」とするので、私たちはそれに従う。
幸福とは、その生物的判断のひとつである。「これでいい」。つまり、今の自分の状態が、実際自分にとって好ましいか否かには問わず、肉体の生物的判断として「よし」と判断した場合、私たちは「幸福である」と感じるし、周りの人間から見ても「幸福そう」と見えるのである。私たちはその「よし」というのに「幸福」という名前をずっと付けて、親しんでいたわけだ。
それは人間のひとつの状態である。体全体が、自分の環境と自分の肉体の状況を「よし」とすること。そう判断し、私たちの脳や意識にそれを伝え、私たちの脳や意識がそれを受け入れた時、私たちは自分のことを「幸福である」あるいは「幸福になった」と言うのである。
さてここから派生して、幸福になるための方法を考えてみよう。あくまで私たちは私たちの体だけで生きているから「体が幸福だと感じること」がまず幸福であるということを承認してもらわなくてはならない。
ただここでいう「体」の中に、意識や思念も含まれていることを忘れてはならない。つまり、首から下が気持ちよくても、頭で気持ち悪いと感じていたら、それは不快であり、幸福とは言えない。
麻薬などで体の一部が麻痺することによって快楽を得たとしても、それは肉体が「これでよし」という判断をしているわけではなく、ただそういう物質を無理やり分泌させているだけなので、これも幸福とは呼べない。
こういうことを前提に、私たちの体が「何を幸福とするか」を見ていこう。
「これでいい」と判断するためには、最低限の状態が必要である。最低限とは何か。
さて厄介なことに、その「最低限」はその人自身の肉体や性向によって異なるため、「あなたにとってどうであるか」は私は知らないし「みんなにとってどうであるか」も私はうまく推論できない。
ここでは一例として、私自身が私自身の肉体に問うてみて、何を「最低限」としているか、一例を示したいと思う。
1.体が健康であり安全であること
明日死ぬかもしれない、という状況は私の頭はともかくとして、肉体は好ましいとは思わない。「それでいい」と思うのではなく「何とかしないと」と思ってしまう。ゆえに、私にとって明日がちゃんと来ることが幸福の条件のひとつである。
当然ながら、体が不調でないこと、不調になるんじゃないかという不安を抱えていないこともまた同様に、幸福の条件となる。
2.退屈への対処方があること
人は退屈すると「退屈したくない」と感じる。ゆえに「次の瞬間に自分が退屈するかもしれない」と思っている時、退屈しないための手段を準備しようとする。これは正に「なんとかしないと」という状態であるため「これでいい」と感じることが難しい。
ゆえに、退屈だと感じたときの対処法がすでに用意されていることが、幸福の条件となる。
3.孤独を恐れていないこと
孤独というのは恐ろしいもので、もし何か危険が差し迫ったとき、自分ひとりで対処しなくてはならない。そのような不安を抱えた状態で「これでよし」とするのは難しい。
ゆえに、孤独であっても安全な環境を作るか、自分の信頼できる仲間を身の回りに固めることが、幸福の条件となる。
4.幸福に期限がついていること
「これでよし」という状況がずっと続いて、危険が差し迫っているのに気づかず破滅してしまうんじゃないか、という不安を抱いていると「これでよし」と思うことに抵抗を感じる。
つまり私にとって、その幸福にはっきりとした期限がついていることが、幸福の条件となる。
これらはあくまで私が幸福であるための「最低条件」である。ただし、人間の幸福は前述したとおり、弱いと強いがある。
幸福を産み出すのは、何も消極的な事柄だけでなく、何か喜ばしい出来事で大きく感情が動かされた時も、幸福を感じるのである。
何か大きな喜びを感じた時、自分の現状を忘れて「これでよし!」と肉体が自分と環境を全肯定することがある。これも幸福の一形態である。こういう幸福は、先ほど述べたような最低条件を瞬時に満たす。そして、瞬時に過ぎ去っていく。
あくまで幸福とは状態であり、時間によって測られるものではない。あくまでそれは肉体の一時的な判断であり、精神だけでなく、人間という生物の様々な状態のひとつである。(様々な状態というのは『怒っている』だとか『勉強している』だとか『眠っている』だとか、そういう状態のことを言う。同一の人間であっても、異なる状態の中では異なる肉体的性質を持つ)
私たちが「幸福になりたい」と考えるのは「どうにかしてなくては」と肉体が判断しているにも関わらず「どうすればいいか分からない」と考えるがゆえである。
自分にとって何かが欠けているにも関わらず、何が欠けているか分からないから、広い範囲を含む言葉である「幸福」を用いて、自らの不満を表現するのである。
幸福への欲求というのは、人生の最終目標でもなければ、人類の目的でもなく、単なる欲求不満の肉体的表出である。
欲求不満は誰でも感じたことのあるものである。ゆえに、幸福への欲求は万人にあるものである。しかし、常にというわけではないことを忘れないようにしよう。私たちは幸福を時々感じるし、時々だからこそ、その地位が守られる。私たちは幸福を時々しか感じられないからこそ、幸福を素晴らしいものだと思えるし、人生自体に対しても「それでよし」とすることができる。
幸福を目標にするのはやめよう。ただ、幸福という状態を感じるために、自分に何ができるか考えることは、私たちの精神も含めた肉体にとって、とても有意義なことと言えるだろう。
欲求不満ならば、何が足りないのか具体的に考えよう。そして、その欲求が満たされたならば、それが一時的な幸福であるがゆえに、それをよしとして、楽しもう。その後また、新たな欲求が生まれてきたら、それを満たすために努力をしよう。
私たち人間の人生はそのサイクルで回っているし、それを肯定してこそ、人生を楽しく生きることができる。
間違っても「欲があるから苦しむのだ」などという連中の意見を鵜呑みにしないようにしよう。欲のない人間は美しくない。苦しみを嫌がりすぎる人間も、美しくない。
私たち、よく泣き、よく笑う人間であろう。健康で、幸せで、不幸な人間であろう。天国も地獄もこの世のものであり、せっかく生まれたのだから、両方とも味合わねば損なのではないか?