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寄生社会、ニッポン

このnoteで皆さんにお伝えしたいことはこの一つだ。
日本は”寄生社会”化している。
どういうことか。丁寧に説明していこう。

Ⅰ 寄生社会とはなにか

そもそも「寄生社会」とは私の造語なのだが、
「寄生社会」という語を構成する要素の一つである
「寄生」の意味を改めて確認しておこう。

ある種の生物が,特定の生物に栄養的に一部あるいは全部を依存して生活することをいい,一般に寄生者が利益を得るのに対し宿主は種々の損害を受ける場合をいう。(参照:コトバンク,2021,4,19)

「寄生」の要点は以下の二つだ。
①寄生側が被寄生側に一部または全面的に”依存”すること
②寄生側は”利益”を得るのに対し、被寄生側は”損害”を被る

寄生側は被寄生側が存在する限り生存できる。だが、
被寄生側には何ら得するものはない。こういうことでもある。

私が言いたいのは、この寄生側が社会において極端に増加しており、
もはや「寄生社会」と化しているのではないか、ということである。

Ⅱ 企業が大学に寄生する

日本社会において最も寄生側と成り果てているものはなにか。
それは「企業」である。
寄生側となった企業が、被寄生側となった労働者に寄生している。
私はこのように考えている。

具体的な例を挙げて確認しよう。
従来は、新規学卒一括採用後、ジョブローテーションやOJTなどを通して”学生”を”社会人(企業人、組織人)”に育てていた。しかし、最近では企業が大学に対して、即戦力となるような人材を育てる風潮が出てきている。

これは、企業が大学に社会人教育を”依存”しているのではないか。
つまり、寄生側の論理が働いているのではないか。
もちろん、この方がコストが減り、企業にとっての”利益”は増える。
一方、大学側にとって企業にあった社会人を育成するのは”利益”ではなく、むしろ”損害”ですらある。

そもそも大学とは就職予備校ではないし、企業に貢献しうる人材を育てることが目的ではない。もちろん、大学の目的とするものの一部が企業とマッチすることもあるともあるだろう。だが、大学とは本来、日本社会ひいては世界において貢献しうる人材(国民)を育てることや、教養の滋養、個々人の人間形成の一助となることを目的とする機関であるはずだ。企業人を作るのが大学の目的ではない。それらは専門学校や職業学校などが担うものだろう。

だから、企業を至上として、それの要請に応じた人間を作り上げることは、大学の本来の目的と反しているため”損害”になるのだ。

大学の損失は、本質的には大学生の損失である。大学生は将来の労働者だ。
企業が大学に寄生しはじめたとき、将来の労働者である大学生は本来大学で果たす事が出来たであろう可能性が狭められ、企業の要請に適ったもののみが評価されるようになるのだ。大学生にとっては損害極まりない。

大学内では、有名大企業や公務員になるために、必死に勉強している学生が大勢いる。海外勤務や外資系ならTOEIC、金融系ならFPや販売士、税理士なら税理士試験、公務員専門学校にダブルスクールして、勉強する学生は多い。

企業にとって利益となる勉強は十分素晴らしいのであるが、日本人、社会人、世界市民、などとして相応しい勉強を大学では勉強すべきなのではないだろうか。論理的思考力や教養などといったものをもっと研鑽すべきなのではないだろうか。私はときどきそう思う。

大学生は必死に優秀な労働者になろうとしている。
では、彼らは本当に被寄生側になるのであろうか。
読者はそう思われるだろう。

Ⅲ 大学生は被寄生側になるのか

そもそも労働者と被寄生側はイコールではない。
もう一度最初に挙げた定義を確認して欲しいのだが、
被寄生側とは”依存され”、”損害を被る”ものである。
この際、重要になってくるのが”損害”の有無だ。

例えば、残業が毎月10時間残業発生するものの、
その分、相応しい額の残業が支払われ、それに労働者側も納得している時、
この労働者は”損害を被っていない”ので被寄生側にはなっていない。
「被寄生側」ではなく、あくまで「労働者」なのだ。

つまり【労働者側が損害を被っているかどうか】が労働者と被寄生側を分ける基準なのである。この点には留意して欲しい。

さて、ここまでくれば読者の方々はもう納得されるであろう。
読者の方々は働きながら損害を被っている、と感じる機会が多いのではないだろうか。

未だにブラック企業は問題となっているし、みなし労働残業性、固定残業時間制、といった労働者側が損をする、言い換えると被寄生側に転じる制度が数多く存在している。名前だけ管理者なども多く存在する。大企業でさえこのような制度を敷いている所は多い。電通などの例もある。

同じ仕事をしているにも関わらず、賃金が低い非正規労働者などは被寄生側の典型だ。多くの非正規労働者はいつでもクビを切られるという弱みを握られ、損害を被っているということを自覚しながらも、これ以上条件の悪い会社で働きたくないために消極的に働いている、というのが現状なのではないだろうか。

今日話題の、外国人技能実習生なども代表的な被寄生側だ。家族が貯めたなけなしのお金を払い、夢と希望を持ってきた日本企業で受ける人間以下の仕打ちは、虚しい(例えば、NHKの「ノーナレ」はこの問題を扱った)。
彼らは借金や家族からの期待も抱えているため、簡単に帰国することはできない。企業側は強制帰国をチラつかせて脅すこともできる。
損害を被っていると感じながらも、弱みを握られているためなかなか被寄生側から脱出できない。

Ⅳ 寄生側は乗り換えホーダイ

更に恐ろしいことは、寄生側は被寄生側を乗り換えることが可能ということだ。例えば、今年採用した新入社員をこき使い、ダメになればまた新しい新入社員を採用すればいいだけだ。これは非正規労働者、外国人技能実習生などにも当てはまる。

寄生側は被寄生側を乗り換え放題なのだ。
被寄生側は基本的にじっと我慢していくしかない。

だが、変える方法もある。例えば、自分で勉強して起業したりするなどだ。
巷では、起業のサロンやブログや株、副業などがブームだ。
いずれも被寄生側からの脱出行為としても見ることができるだろう。

しかし、それが行きすぎると「自己責任論」が跋扈してしまう。
自己責任論は、被寄生側から寄生側への転身を「成功」だと肯定し、
いつまでたっても被寄生側にいるものを「否定」する。

まるで、被寄生側が全て悪いのであるかのように扱う。
被寄生側が生じる社会構造の歪さなどから目を逸らさせるのだ。

また、被寄生側からの脱出行為は成功してもあくまでその個人だけが救われるものであり、被寄生側全体が救われる案ではないし、そもそも、それらが成功する確率だって低い。

Ⅴ 被寄生側はどうすればいいのか

ではどうすればいいのか。どうすれば被寄生側全体が救われるのか。
その案は何なのか。

いくつかヒントはあると思う。先ず思いつくのは「労働組合」だ。最近では「○○ユニオン」などという名前で活躍しているのも目に見かける。

被寄生側全体がまとまり、寄生側に、代わりの被寄生側はいないのだぞ、
そう思わせることは有効だろう。

しかし、もっとも重要なのは、我々一人一人が、どうすれば被寄生側全体が救われるのかを考え、アイデアを共有し、行動していくことだ。誰かのアイデアを頭ごなしに真に受けていては、真に被寄生側からの脱出ができないのではないか。誰かの意見に従い行動していては、再び被寄生側になってしまう可能性がある。

個々人それそれが自分の頭で批判的に考えること、これが被寄生側全体がなくなることの基礎なのだ。

今回の私のNOTEが、その批判的思考力育成の一助となるのであれば、大変喜ばしいものであると感じている。


約3000字を超えるNOTEをお読みいただき、ありがとうございました。

~オマケ~
批判的思考力について参考になるオススメの本を一冊紹介します。
『知的複眼思考法』,苅谷 剛彦,講談社,1996


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