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手作りじゃなければ料理じゃない・・・?

スーパーマーケットに行くと、惣菜コーナーには必ず「カット野菜」が売られている。ポテトサラダもあるし、各種フライも並んでいる。夕方ともなると、惣菜コーナーは多くの人で賑わっている。
最近では言われなくなったようだけれど、少し前には手抜き料理として揶揄されたことのある食品群だ。先に述べておくと、ぼくはこうした惣菜料理を晩ごはんにすることに関しては肯定的である。

かつて、「買ってきたポテトサラダを家庭の食卓に並べるのは手抜きだ」
という意見が優勢だったことがある。一体何が問題なのだろうか。
子どもたちにとって、幼少期に食べた食事の味は思い出の一部になっていく。今では言われなくなってきたけれど、いわゆる「お袋の味」。そうした幼少期の重要な体験を出来合いのもので済ませてしまっても良いのだろうか。というのが主な意見だったように記憶している。

たしかに、それはそれで一見して正論のように聞こえることもある。けれども、それは真実だろうかというのがぼくの疑問だ。

料亭で料理人などという商売をしていると、なんでも手作りだろうと思われてしまう。実際にはそんなことはないのだ。既製品を買ってくることも多い。そもそも、全てを手作りで作っていたらたいていの飲食店は成り立たないのだ。朝早くから豆乳を絞って豆腐を作り、毎年大量の味噌を仕込み、醤油も数種類仕込んで、みりんや酒を作るなんてことは不可能である。醤油もみりんも酒も、酒税法の関係上、勝手に作るわけにもいかない。
だいたい、これらの食品を作るのではなく買うことが出来るようになったから外食産業もっといえば、料理が発展したのだ。
同じ理屈で、従来はあり得なかったはずの「家庭料理」がこれほどにまで花開いたのである。

家庭料理は近代の造語である。料理という言葉は江戸時代には既に存在していたのだけれど、それは「食のプロ」が作る本膳料理や会席料理や懐石のことを指していた。食と思想と技術が組み合わさったもののことである。そういった意味だったはずの「料理」という言葉が、対極にあるはずの「家庭」という言葉と組み合わさることで「言葉のおもしろさ」が生まれたのである。

家庭料理は、外食産業の料理を家庭に持ち込んだものだ。そして、外食産業が発展することが出来たのは、一次加工品のような食品が一般に流通するようになったからだ。だから、家庭であっても飲食店であっても、全てを手作りで作ることはナンセンスなのだ。というのが、持論である。

料理人が、既製品ではなく手作りをするのは、そのほうが求める味に近づくからだ。メチャクチャ美味しいごま豆腐を買うことができるならば、ぼくは迷わずそれを買って献立の中に組み入れる。ただ、今のところ自分で作ったものよりも美味しいと思える既製品に出会ったことがない。自分で作った方が美味しいから自分で作る。ただそれだけのことだ。

美味しいものを「選ぶ」という行為もまた料理。いわゆる目利きだ。食材を吟味することは、料理における基本中の基本。これは、精進料理について語られている書籍「典座教訓」にも記されていることだ。吟味する対象が籾殻の付いた米のような存在でなければいけないというわけではない。加工されたあとの食品も対象となるのである。
結局、料理に何を求めていて、どのように解釈するかということに尽きるのだと思う。

惣菜に関しては、フードロスの観点で見ても効率が良い。例えばカット野菜。必要な分だけ購入するわけだから、購入した後にゴミになりにくい。例えばキャベツを一玉購入しても使い切れないという家庭もあるだろう。外側の硬い部分を剥ぎ取るわけだけれど、多くの家庭ではそれは生ゴミとして、可燃物として捨てられる。社会全体のことを考えれば、野菜の皮は燃やさないほうが良いはずだ。炭素循環を考えれば、空気中に放出して温暖化に寄与してしまうよりも、肥料にするほうが幸せなのだ。けれども、家庭では様々な事情からそれが出来ない。だから、販売される前の時点で野菜の皮を回収しておいて、一括して資源のサイクルに回したほうが社会としての効率は高くなる。

社会全体の食のサイクル。こうした観点からみても、実は惣菜というのは効率的で理にかなっているとも言える。
もちろん、体験や豊かさなどの視点から見ても同じ判断になるかというと、そうでもない。ただ、ものの見方としてはこういった視点もあるのだということは知っていても良いだろう。

今日も読んでくれてありがとうございます。飲食店の役割の一つには、美味しいものを見つけるというのも含まれるような気がしているんだよね。○○さんの大根が美味しいとか、○○さんの豆腐が美味しいとか。魚の目利きと同じ様に半製品の目利きも大切な要素だと思うんだ。

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