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「かぐや姫の物語」にまつわる考察 【三】

*ネタバレあります。かぐや姫の物語の考察、第三夜。私見が多数ありますので、備忘録として読んで頂ければと思います(逃げ)


「姫の犯した罪と罰」
センセーショナルなキャッチコピーである。この功罪はあって、私含め多くの人が、このキャッチコピーで興味を掻き立てられ「見たい」と思ったのではないか。
ただ、高畑監督はこのコピーにちょっと抵抗していたみたいだ。
ユリイカ2013年12月号のインタビューより

───なぜ高畑さんがかぐや姫の罪に注目したのかということが不思議なんです

(高畑)だって原作に書いてあるんですよ、姫は「昔の契りによって来たんだ」と言うし、お迎えの月の人は「罪を犯しされたので下ろした」が「罪の償いの期限が終わったので迎えに来た」とかね。

僕のアイデアというのは、罪を犯してこれから地上に下ろされようとしているかぐや姫が、期待感で嬉々としていることなんです。それはなぜなのか。

地球が魅力的であるらしいことを密かに知ったからなんですよ、きっと。
しかしそれこそが罪なんだと。しかも罰が他ならぬその地球に下ろすことなんです。
なぜなら、地球が穢れていることは明らかだから、姫も地上でそれを認めるだろう。そうすればたちまち罪は許される、という構造。それを思いついたんです。

でもそれは前提で、ねじれて矛盾しているように見えるし、簡潔には伝えにくいから暗示にとどめて、プロローグであからさまに説明するのはやめようと思っていたんです。

なのに「姫の犯した罪と罰」 というセンセーショナルなコピーが出ちゃった。しょうがないから、ちょっとチラシ裏に書いたり、本編もそれで少し直したところがあります。


地球に憧れたことが罪。
地球に下ろされたことが罰。

こう書いて「ああそうか」とスムーズに心から納得する人がどれだけいるだろうか。だから、監督が言うようにそこには「ねじれ」がある。
キャッチコピーに引かれて映画を見て、納得いかずにこの映画に低評価をつける人がいるとすれば悲しい。

「ねじれ」「簡潔には伝えにくい」のなかには高畑監督の知識と哲学が詰め込まれているので、言語化するには大変なのだと思う。

『地球に憧れたことが罪、下ろされたことが罰』
まず前提として「地球が穢れている」という思想。この「かぐや姫の物語」で月の世界はあの世、死後の世界のように描かれている。ということは、この世が穢く、あの世が清浄な世界と設定されている。竹取物語が書かれた当時は、いや今も多くの宗教ではその方向なのだろう。

仏教でいう厭離穢土、欣求浄土のような言葉や、死の黒不浄、産の白不浄、生理の赤不浄など、人間の営みを忌むことと、月の世界の清浄さ、悩みのないさまを対比させていて。
特に女性は五障三従と言われた。

五障(ごしょう)とは、ブッダ入滅後かなり後代になって、一部の仏教宗派に取り入れられた考えで、女性が持つとされた五つの障害のことである。「女人五障」ともいう。女性は梵天王、帝釈天、魔王、転輪聖王、仏陀になることができない、という説である。Wikipedia

女性は生まれながらにして穢れており成仏できず、死後は血の池地獄に落ちるとまで。後に「女人成仏」でも、長い期間を経て「男子になって」成仏できるという変性男子という概念があって初めて成仏できる、と。

三従とは:昔、婦人の守るべきものとされた三つの事柄。結婚前には父に、結婚後は夫に、夫の死後は子に従うということ。goo辞書より

かぐや姫だけでなく、当時は女性というだけで罪があると言われた。美しいとなおさら、男の浮気心を掻き立てる、罪深いと。
高畑監督は、かぐや姫は現代の女性と考えていたとのこと。ならば、この時代の都会で美しい女性としての生活はとても耐えられない世界なのだと思う。

かぐや姫は、その「穢き地球」から帰還した女(羽衣伝説の一人)から、地上のことを聞いて彼の地に憧れる。
輝きに満ち、清浄だが色のない月と違い、地球は色彩に満ち、青い海があり、魚が泳ぎ、(中略)素晴らしい。けれども愛別離苦の情に振り回され、人はしばしば醜く意地悪く、裏切る。月の世界にいる姫にはそんな否定的な面さえもひどく魅力的に思えた。
そうして禁を破ってその女の(穢き)記憶を呼び覚まして、思い出によって女を苦しめたことが罪。地球に下ろして地球が穢いということを認めさせることが罰。(かぐや姫の物語ビジュアルガイドより抜粋)

その一方で、月に帰還する時、「穢れてなんていない!」とかぐや姫に言わせている。
ここで、高畑監督は「地球は穢れていない」というテーマを出す。映画のパンフレットで、故・地井武男さんに「地球を全肯定する映画」と言っている。地球を全肯定、とは生きていくいのち、生老病死、愛別離苦、ひっくるめて美しいということ。

理趣経の「人間の営みは本来清浄なものである」というような人間讃歌の気持ちが溢れている。

『理趣経』、正式名称『般若波羅蜜多理趣百五十頌』は、『金剛頂経』十八会の内の第六会にあたる『理趣広経』の略本に相当する密教経典である。主に真言宗各派で読誦される常用経典である。 『百五十頌般若』、『般若理趣経』と呼ぶこともある。Wikipedia

竹取物語の作者は空海ではないかという異説もあるようで、そうなると空海と最澄の疎遠の一因となった上記の理趣経が「かぐや姫」と無関係とも思えない。

高畑監督は空海のことは触れてはいないが、そういった説もあったことはご存知だっただろう。

また、日本仏教で初めに妻帯した親鸞のように、取り入れた外国の宗教は変わってゆく。日本はどうしても古代の母系社会、男女和合社会の痕跡は消しても違う形でにじみ出てしまうのではないか。

道祖神や男女和合のお祭りが日本各地にたくさんある。けれど、何度も外国からその素地を守らねばならず、暗号やら物語やら、本地垂迹と称して神の名前を習合したりと苦労してるように思える。

高畑監督は、かぐや姫の最後の涙は「地球のすばらしさを満喫することのないまま、そして自らの生を力一杯生きることのないまま、帰らなければならなくなってしまったことを悔やむ涙だった」(ビジュアルガイド高畑監督企画書より)
と書いている。

だが、その涙では私は号泣しなかった。
最初の企画書はそういう意図だったかもしれないが、それを越えて大切に隠され守られている女神、それは日本だけではなく魔女狩りにあった数多の(男女関係ない)人々の祈りをDNAが思い出したかのように魂が震えた。
もちろん、二階堂和美さん主題歌の
「いのちの記憶」の歌詞にも感動。

あなたに触れたよろこびが
深く深く
このからだの端々に
しみこんでゆく(以下略)


まだ不定期に続くんです。なかなかまとまりに欠けてると思う!(開き直り)





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ささら猫
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