短編とあとがき「水底の書」


─ 海行ゆかば 水漬く屍(かばね)
     山行ゆかば 草生す屍(かばね) ─
                   ( 万葉集:大伴家持)

 
ああ、暗い。

 
月のない夜だった。

山の奥にある、深い沼の底。

腰から下が水底の泥に埋もれて、
上半身はゆらゆらと揺れていた。

揺れるたびに少しずつ肉がはがれ、泥水に溶けてゆく。

指先から、はらり、はらりと
爪が剥がれる。

 
コロサレタ、記憶がわずかにある。


埋もれた足に絡まるロープは、傍らのブロックにつながっている。もうすぐそのロープからも、ずるりと足は抜けるだろう。

なにかがこの身をついばむ。
ぬるく、いのちにあふれたこの沼。

身体はどんどん溶けて、私は泥水そのものになる。

 
─   どうする   ─

声が聞こえる。

コラシメタイ、と答える。魂は憎しみを感じない。ただ「必要なこと」として、コラシメなければ、と感じていた。

 そよ、と風が水面を渡る。

 ─ 吾らは許すも許さぬもない。 ただお前が鎮まればよい。海、川、沼、池に落とされ、または身を投げた者たちはミツハ神となる。龍、河童、ミズチ、イソラ。
もとより、生まれるまえよりミツハの一族もある。おとたちばな、てこな、あんとく、かさね、あまたの地に伝わる、身投げし、かはづや龍蛇と変じた娘たち。皆、そうだ。
皆、魂鎮めに手を貸そうぞ ─
 

ざわざわとかすかに水面が波立ち、一陣の風とともに、雨が降り出す。水面にぽつ、ぽつと輪が描かれる。それはやがて鋭い雨の矢となって、沼にびしびしと突き刺さる。

 水は沼の八方より集い、私に注ぎこむ。水とともに、太古からの記憶がすべてなだれこんでくる。火と氷の大地。屹立する石塔。猿たちの咆哮。
地が鳴動し、裂ける。呑み込まれる。洪水。再びいちから繰り返される人々のいとなみ。

泥水と化した私はその記憶を巻き込み、濁流の渦に、そして水柱となって勢いよく吹き上がり、岸辺へともんどりうってこの身をたたきつける。

触手をのばすように大地に沁み込んでゆく。木の根をくぐり、小川に入る。山肌を滑り落ち、ダムにたゆたい、やがて街の浄水場へ。

銀(しろがね)の管、白(しら)の管から、どこへでもいける。

さあ、どう恐怖を与えようか。

あるマンションの一室でコロシタモノを見つけた。その部屋中に、禍々しい気が渦巻いている。

そのモノはコップに水をくむ。私の呪(しゅ)、蛇口からほとばしる。

タタリ、タタリ、ごくり。とうとうたらりとうたらり。

 呪水は、のどをすべり落ち、臓腑へ。コロシタモノの体内に沁み渡る。脳内にも入り込み、たぎり、見えぬはずのものを見させる。

コロシタモノはがくがくと震え、その場に倒れこむ。

やがて、眼と口をありえぬほど大きく開き、断末魔の叫び声をあげてこと切れた。

 ─  どのような霊能者であろうとも、
       吾らを鎮めることはできない。
       真に祓い、禊ぎ、鎮めることが
       できるのは吾らのみ  ─

 私はいまや街中に網目のように存在していた。水はどこにでも流れ入り込む。大地は水で編まれた織物だ。そしてたゆたう中で、懐かしい感情をみつけた。

 オトウサン、オカアサン。

鮮明に思い出が蘇る。ぬくもり。母の匂い。父のひげ。初めての動物園。誕生日のケーキ。友達とケンカした日。運動会のおにぎり。卒業式。クリスマスのチキン。初恋。初めてのデート。初めての口づけ。

たくさん、笑った。たくさん、抱きしめられた。最期の闇の記憶が、それらに書き換えられる。

 オトウサン、オカアサン。

ありがとう。泣かないで。私は美しいところへ行くから、大丈夫。


いつのまにか、私は沼の水底にもどっていた。ふと、なにかに吸い上げられ、ぽん、と明るいところに出た。

青い青い蓮の花の上だった。私は蓮の上で生まれた小さな龍だった。

その蓮に、まっすぐに光がさしている。山の端から、曙光。

朝だ。

 
       ─ 泥をくぐり抜けて
            蓮の花は咲くのです ─

透明な声がささやく。私は、青蓮の上でそろそろと首をもたげる。

朝焼けの空に橋架けるように虹がでた。その虹はほどけると、七色、七柱の龍となってこちらへ向かってきた。

    ─ また、生まれ変わるまで私たちと、 雨降り星でしばし過ごすといたしましょう ─

 虹の龍神たちに守られて、ぐんぐんと空へ登ってゆく。

群青の世界、星々の瞬く空間へ。

 
眼下には、青い水の球が浮かんでいた。

 

誰もが、水底で生きている。

 


 

(了)




初出:エブリスタ、改稿

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あとがき

文中の、おとたちばな、てこな、あんとく、かさね。説明も無粋かもですが一応。

【おとたちばな】弟橘比売命

『日本書紀』によれば、穂積氏忍山宿禰の娘。日本武尊との間に稚武彦王を儲ける[1]。

さらに相模においでになって、上総に渡ろうとされた。海を望まれて大言壮語して「こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができよう」と言われた。ところが海の中ほどまで来たとき、突然暴風が起こって御船は漂流して渡ることができなかった。そのとき皇子につき従っておられた妾があり名は弟橘媛という。穂積氏の忍山宿禰の女である。皇子に申されるのに、「いま風が起こり波が荒れて御船は沈みそうです。これはきっと海神のしわざです。賎しい私めが皇子の身代りに海に入りましょう」と。そして、言い終るとすぐ波を押しわけ海におはいりになった。暴風はすぐに止んだ。船は無事岸につけられた。時の人は、その海を名づけて、馳水といった。こうして、日本武尊は上総より転じて陸奥国に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦を廻り玉浦を横切って蝦夷の支配地に入られた[2]。  Wikipedia

【てこな】千葉県市川市の、「真間の手兒奈」という伝説の女性。万葉集にも出てきますね。

一つの説によると、手児奈は舒明天皇の時代の国造の娘で、近隣の国へ嫁いだが、勝鹿の国府と嫁ぎ先の国との間に争いが起こった為に逆恨みされ、苦難の末、再び真間へ戻った。しかし、嫁ぎ先より帰った運命を恥じて実家に戻れぬままとなり、我が子を育てつつ静かに暮らした。だが、男達は手児奈を巡り再び争いを起こし、これを厭って真間の入り江に入水したと伝えられている。古くから語られていた伝説が、この地に国府がおかれた後、都にも伝播し、万葉集の歌人たち(山部赤人・高橋虫麻呂)の想像力をかきたてたとされている。

737年に行基がその故事を聞き、手児奈の霊を慰めるために弘法寺を開いた。現在は手児奈霊神堂に祀られている。また、亀井院には手児奈が水汲みをしていたとされる井戸が現存している。
(万葉集)多数あるうちの二首
我も見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手兒名が奥津城ところ
勝鹿の真間の入江に打ち靡く玉藻苅りけむ手兒名し思ほゆ                Wikipedia


【あんとく】言わずと知れた安徳天皇。
平家の悲劇の天皇。壇之浦の入水の場面は涙。

 最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた母方祖母・二位尼(平時子)に抱き上げられた安徳天皇は、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。二位尼は涙をおさえて「君は前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる。天皇は小さな手を合わせ、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた。安徳天皇は、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月、6年124日)で崩御した  Wikipedia

ちなみに、安徳天皇その後も生存説、女の子説など色々あります。私も、入水その後を描いた童話っぽいものも後日アップしますのでお読み頂ければ。「あきつしまの龍王」というタイトルです、(宣伝)

【かさね】累が淵。実話をもとにした怪談。

国岡田郡羽生村に、百姓・与右衛門(よえもん)と、その後妻・お杉の夫婦があった。お杉の連れ子である娘・助(すけ)は生まれつき顔が醜く、足が不自由であったため、与右衛門は助を嫌っていた。そして助が邪魔になった与右衛門は、助を川に投げ捨てて殺してしまう。あくる年に与右衛門とお杉は女児をもうけ、累(るい)と名づけるが、累は助に生き写しであったことから助の祟りと村人は噂し、「助がかさねて生まれてきたのだ」と「るい」ではなく「かさね」と呼ばれた。両親が相次いで亡くなり独りになった累は、病気で苦しんでいた流れ者の谷五郎(やごろう)を看病し、二代目与右衛門として婿に迎える。しかし谷五郎は容姿の醜い累を疎ましく思うようになり、累を殺して別の女と一緒になる計画を立てる。正保4年8月11日(1647年)、谷五郎は家路を急ぐ累の背後に忍び寄ると、川に突き落とし残忍な方法で殺害した。その後、谷五郎は幾人もの後妻を娶ったが、尽く死んでしまう。6人目の後妻・きよとの間にようやく菊(きく)という名の娘が生まれた。寛文12年1月(1672年)、菊に累の怨霊がとり憑き、菊の口を借りて谷五郎の非道を語り、供養を求めて菊の体を苦しめた。近隣の飯沼にある弘経寺(ぐぎょうじ)遊獄庵に所化として滞在していた祐天上人はこのことを聞きつけ、累の解脱に成功するが、再び菊に何者かがとり憑いた。祐天上人が問いただしたところ、助という子供の霊であった。古老の話から累と助の経緯が明らかになり、祐天上人は助にも十念を授け戒名を与えて解脱させた。Wikipedia

ついでに最後に龍たちが帰る、【雨降り星】

アルデバランとヒアデス星団を含む、おうし座の顔部分の7星。雨降り星・雨降星(あめふりぼし)。畢(ひつ)。
ヒュアデス(古希: Ὑάδες, Hyades)は、ギリシア神話に登場するニュムペーたちである。キュレーネー山で生まれた5人ないし7人の姉妹。名前は「雨を降らす女」を意味する。ティーターン族の巨人アトラースの娘で、カリュプソー、ディオーネー、マイラ(Maira)、プレイアデス、ヘスペリデスとは異母姉妹の関係にある(プレイアデスとは同母姉妹とも言われる)。ヒアデス星団と同一視される。

雨降り星、がいつからの言葉かわからないけど、このギリシャ神話を知っていたとしか思えない。もっと妄想するならギリシャ神話の元になったかもしれないし。
しかも、2007年、ヒアデス星団で太陽系外惑星を日本人が見つけて、「アマテル」と名付けたそうじゃないですか!
有名ですか?すみません。

岡山天体物理観測所研究員の佐藤文衛らは、反射望遠鏡と高分散分光器を用いて巨大な恒星の惑星系の調査を行っていた[3]。2007年、おうし座のヒアデス星団において、恒星であるおうし座ε星の周囲を回る惑星を発見した[3]。散開星団において、太陽系外惑星が発見されたのは史上初めてであった[3]。また、年齢や質量が高い精度で判明した恒星において、太陽系外惑星が発見されたのは史上初めてであった
Wikipedia

「アマテラス」は既に他の小惑星についていたため、2015年、「アマテル」と名前が確定。

なんかいろいろ出てきますねー。
長いあとがきはこの辺にしておきます。

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ささら猫
お読み頂きありがとうございます!