見出し画像

居酒屋での風景

東京下町のある居酒屋でのこと。窓から見える大通りに面した古いビルには「テナント募集」の看板が掲げられ、隣のビルは解体の準備をしていた。角のラーメン屋さんは、大きな黄色い看板で麺をアピールしており、行列が絶えず繁盛している。確か、前もラーメン屋だったが、3年くらいしかもたなかった。

行きつけのこの店には、女将がビール樽に腰掛け、往来の人々を眺めている姿が記憶に残っている。コの字型に年季が入った木のカウンターと、お品書きは紙に墨で書かれており、風でひらひらなびいている。
ある日、その女将がめったにないことだが、カウンターに入り、私にお酒を注いでくれた。そして、「主人もあなたのような真面目な人だった」と、私とご主人を重ねて懐かしがっていた。私の唯一の取り柄は、真面目であること。誠実に生きることを常としている。

厳格な父が、「誠実に生きよ」とかねてから教えてくれた。それが私の座右の銘となっている。自分なりに解釈したのは、他人にも自分にも嘘をついてはいけないということ。なるべくそのように生きようと心がけている。

向かいに、初老の男性と30代くらいの男性が飲んでいた。初老の男性は白いシャツにApple Watchを身に着け、若さをアピールしており、若い方は黒ずくめで、髪はややロングにパーマをかけていた。親子だろうか?会社の上司と部下なのだろうか?それにしても、会話がほとんどない。
タコブツを肴にコップ酒をゆっくり飲みながら、時間がゆっくりと過ぎてゆく。

もし上司なら説教じみたことを言いそうだが、父親にしては少し距離感がある。一体どんな関係なのだろうか?そんなことを想像しながら、そのほのぼのとした空気を楽しんでいた。

しばらくして、初老の男性がよろよろと立ち上がり、ふらふらしながらトイレに向かった。その時、若い男性が「お冷ください」と店員さんに言った。初老の男性のコップ酒がほとんど残っているのを見て、店員さんは飲み過ぎを制止するような言動だったので、彼は「お水ください」と言い直した。初老の男性がかなり酔っていたので、優しい親切心でお水を用意してあげたのだ。

しばらくして、お勘定となり、「七千七百円です」と言われた。若い方は3千円を出し、初老の方がまとめて支払った。ほぼ割り勘にするということは、親子だったのだろうか?


介抱するように、初老の男性を出口まで案内する彼の後ろ姿をみていると、出来た若者だと感心した。


少しほろ酔い気分で1階に降りると、あのビール樽はもうない。名物女将も、かなり前から見かけなくなっていた。女将目当てで、説教を受けるのが快感で通うサラリーマンも多かったはずだ。もう会えないと思うと、とても寂しく感じた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?