なんとなく生きていた元営業職の私が保育士になってようやく自分の道を歩き始めました
1.優柔不断に生きていてもなんとかなった学生時代
あなたは「AとBどちらがいい?」という問いに素直に答えられる人だろうか?私は否だ。子どもの頃からそうで、例えば母親に「水色とピンク、どちらがいい?」と聞かれると、妹はピンクが好きだろうから「水色かな」と答えるような具合であった。素直に好きな方を選べばいいのに、どちらを選んだ方がいいのか?と思考を巡らせ、結果的にどうでもよくなり、相手に合わせてしまうのである(相手が合わせてほしいと頼んだわけではないので、勝手にこちらが合わせた気になっているだけであるが)。
学生時代においてもそうで、高校受験の際の志望校は仲が良かった友達の行きたい学校を選んだし、大学は好きな教科を担当していた先生の母校を選んだ。特にどうしてもここに行きたいというわけではなかったけれど、自分の成績などを考慮して、アリよりのアリだな!くらいの勢いで選んだのだ。それに、こう書くとなんだか何も考えて生きていない人間のように思えるが、本当に何も悩んでいないのではなく、その時の私は本気で考え、いろいろとぐるぐる考えた結果、最終決定で誰かの選択に乗ってしまうというだけである(それを優柔不断というのだろう)。それでも、学生時代はそれなりに新しい出会いがあり、楽しい出来事があり、それで良かった…そう、就職して社会人になるまでは。
2.イエスマンの営業が初めてNOと言ったのは退職の時だった
さて、そんな優柔不断な私は大学4年生の就職活動で迷走しまくっていた。自分のしたいことを本気で選択したことがない人間だ。きっと面接でも伝わってしまうのだろう。だって本当にその会社で働きたい理由などないのだから。それなりの数の会社に落ち、面接でうまく話せない自分に落ち込み、もう大学を卒業するまでに就職できないのではないかと、いっそ進学や別の専門学校に通うことも視野に入れ始めた矢先に、勤務地も職種も何でも良いからと応募した会社で採用された。恐らく何でもします!働かせてください!という気持ちと地元から遠い会社だったので観光気分で行ったのがいい感じにリラックスして良かったのだろう。そうして木材会社の営業として働くことになった。毎日仕入れ先や倉庫会社や販売先と電話して、会いに行って商談して、時にはお酒を飲んでコミュニケーションを図り…という生活を数年続けた。新卒だったので、一生懸命やれば周りの助けもありなんとかなっていた。仕事ができるとは口が裂けても言えない働きぶりだったと今でも思うが、周りは「はい!やります!頑張ります!」と言う私を素直に応援してくれる人ばかりだった。会社の先輩方は一番年が近くても30代後半のベテランさんだったので、フォローをよくしてくれたし、新卒で入った同期たちもプライベートで出かけるくらい仲が良く、励まされた。しかし、時間が経つにつれ、営業なのに人と話すことや商品の営利を追求することが苦手だということに気づき、自覚してしまうと、自分のしていることが急に絶望的に思えた。人や環境に恵まれ有難かったが、それではカバーできないくらい苦手なことを毎日続ける苦痛が積み重なり、退職を決意したのだった。
優柔不断とはいえ、今まで多少辛いことがあっても、何かを自ら辞めたことはなかった。部活や習い事も意地と根性があれば乗り越えられたし、継続が大事と思っていた部分もあった。そして何より何かを続けることより、断るとか辞めるといったことの方が優柔不断な私にとってはとても勇気とエネルギーの要ることであった。しかしその時はそれどころではなかった。このままこの先何十年もこの仕事を続けることはきっとできない…「はい!やってみます!」とひたすら仕事に向き合っていたイエスマンの私だったが、初めて自ら辞めたいと告げ、上司に引き止められてもノーとしか答えなかったのだった。
3.ポンコツ保育士は空気になりたい
営業では大人の事情に振り回されることや、損得勘定を考えることが多かったため、そういった世界から離れて仕事がしたいと思い、保育士を目指すことにした。近所の保育園で保育補助をしながら試験を受け、無事合格して資格を得て、そのまま務めている園で保育士をすることにした。しかし、保育業界は異世界だった!営業の仕事は、教育係の上司がいてなんだかんだやり方を教えてもらい、進捗を確認しながら仕事を進められたが(なんて丁寧に育ててくれていたのだろう!)、保育の現場ではそうはいかなかった。新人だろうが実習生だろうが、ほとんど何も教わらず細かな指示もされず、自分で動かなくてはならないのである。なぜか?保育士は子どもの世話をするので精一杯で、大人の世話をする余裕などないのである。今まで新卒として丁重に扱われ、ぬるま湯に浸かってきた私は、超ポンコツだった。わからないけれど先輩方に聞く隙がない、よくわからないままやるから仕事は不十分でスピードは遅い。先生方が使えない私に苛立っているのがビシビシと伝わってきた。休憩時間は先生が集まる休憩室には顔を出せず、ひたすらロッカールームで時間を潰していた。今思えばそういう時間こそ、業務について質問し、コミュニケーションを取る大事な時間なのだが、その頃の私にはそんな要領の良さはなかった。休み時間を机に突っ伏してやり過ごそうとする学生並みに、ひたすら存在感を消したかったのである。
4.ようやく見つけたやりたいこと
そんな私だが、休憩時間はロッカールームでひたすらノートにその日の反省を書き、業務を通して少しずつ先輩方に話しかける機会を増やし、なんとか毎日を過ごしていた。それに、子どもたちと過ごす保育の時間は楽しかった。人と話すのが苦手な私だったのに、毎日多数の子どもたちと話すことになった。子どもと話すのは、大人と話すより、自分の人間力を試された。「なんで?どうして?」という疑問に答えたり、ケンカの仲裁の仕方を考えたり(多くの場合、どちらも各々悪かったりで、落としどころが難しい)、社会的ルールやお友達との接し方について伝えたり…理由や善悪、伝えたいことを簡潔に言わなければならなかった。そんな時、活躍したのが絵本だった。例えば、お友達と仲よくしようということを伝えたいのだったら、ケンカしていたら楽しくないよね、泣いている友達がいたら優しくしようね、などとくどくど口で説明するよりも、お友達関係について描かれている絵本を一冊読む方が、断然子どもたちの心に届くのである。保育士として未熟で話下手な私の救いは絵本の時間だった。子どもたちへのメッセージを絵本にのせて伝えることはもちろん、子どもの興味や性格に合わせて絵本を選び、物語への没入感を味わわせるのも面白かった。キラキラした目で絵本を見つめる顔を見るのは喜びだった。そうやって絵本を選ぶのは楽しかったが、次第に、もう少しこういう絵本があったら、こういう展開のお話があったら…と思うようになった。その時、私の中に、自分で物語を書いてみたい、という思いが芽生えた。
誰かが作った物語が、子どもにとって友情や愛情など目に見えないものを伝えるきっかけになったり、大好きなものの世界に浸る幸せな時間になったり、厳しい現実を教えてくれるものになったりする。誰かの創造が子どもたちの想像を膨らませ、その子にとっての心の糧となっている。私も、そんな物語を書いてみたい。作る側の人になりたい。優柔不断に生きていた以前の私だったら想像もできないほどの強い思いで、今この文章を書いている。