人間もっとうじうじして良いだろ!!!
はじめに
ここ1、2年でハマったアーティストにあだちかすか氏がいる。いわゆるボカロPなのだが、(良い意味で)正統派のボカロらしくない、非常にロックなサウンドが特徴だ。
すごくいい、ほんとに。
この爽快たるギターサウンドがある一方で、歌詞はとんでもなく暗い。このギャップが非常に魅力なのだ。実際、本人もそれは意識しているようで、インタビュー動画でも以下のように語っている。
「なるべくポップな歌詞に、暗い歌詞とか詰め込むの好きだなと思うので。(中略)毒々しいんだけど、ちょっとゆるい感じというか。そういうギャップ感がいいなと!」
これは私の偏見なのだが、「邦ロックは弱者の声を代弁している!」と言われているが、クラスの隅で机に寝たふりをしているような、本当の「弱者」の声は無視されていたように思える。その一方で、あだちかすか氏の曲はそういった「弱者」性を歌っているので、私みたいなうじうじ人間にはものすごく刺さるのだ。
「普通の人間」になるために
ところで、私はあだちかすか氏の楽曲を聴きながら、ESを書いている時、こう思った。
「人間もっとうじうじしてて良いし、それを認めてほしいなぁ」と。
ESで聞かれることは企業によって様々だが、必ずと言って良いほど聞かれるのが、「あなたが最も努力したことは?」というものである。「人生20数年も生きていれば、必ず努力や苦労した経験はあるはず。それを教えてほしい。」というのが人事の言い分らしい。
確かに、私も努力した経験はある。無論それを書きたいのだが、それを社会は許してはくれない。それもそのはず、私が最も努力したこととは「普通の人間になること」だからだ。
ここで言う「普通の人間」とは、「良き家庭、学校環境で育ち、他人とのコミュニケーションも最低限度可能で、友人や恋人もそれなりにいて、精神が安定している人間」を指している。この定義には様々な批判が飛んできそうだが、現代社会が規定する「普通の人間」の定義としては、おおむね問題ないはずだ。
私は大学3年間を、「普通の人間」になることに費やした。というのも、高校生の頃の私が「普通の人間」とはかけ離れていたからだ。容姿はチー牛そっくりで、眉毛も髭も剃らない。髪はガタガタで、服は母親チョイスだったからだ。加えて好きなこと以外は寡黙なオタクコミュ障で、行動も高校生とは思えないほど子供で、空気も読めなかった。
実際、高校1年生の頃、好きな異性がいる8人グループでレストランに行った時、他が同じメニューにしているのにも関わらず、一人だけ違うメニューを頼む狂人っぷりである。もはや空気が読めないとかの次元ではない。こんなことをしておきながら、友達でいてくれた、今もいてくれている皆には感謝しかない。ほんとにありがとう。
さてこのようなヤバい奴も、さすがに大学に入ると色々自覚してくる。ただ動機は強迫観念的なもので、「周りから服装とか馬鹿にされてるかも!友達も欲しいし、ファッションとか美容とか勉強しなきゃ!」という被害妄想100%な動機であった。(無論モテたいという感情もあったが)
そこから私は猛勉強した。まずは今まで通っていた田舎の美容院から、都心の信頼できる美容院に変え、眉毛も整えた。また「剃ると濃くなるから辞めろ!」という迷信から親に止められていた、髭や目立つ体毛もしっかり剃った。ファッションに関しても最初はGUのマネキンをそのまま真似して、最低限度の清潔感も兼ね備えた。そしてメンズメイクも勉強し、スキンケアや顔マッサージも毎日行った。
コミュニケーションに関しても、Youtubeで会話講座をひたすら視聴し、Twitterで知り合った大学の人と話すことで実戦練習や経験も重ねた。また異性とのコミュニケーションが苦手なことも自覚していたので、マチアプでとにかく女の子と会って、練習した。
その結果、中性ウルフのサブカルくねくね男子になっていた。なんでや。
だがその甲斐あってか、大学ではある程度の友人が出来、コミュニティにも所属できた。加えて、人生初の彼女も出来た。大学3年間をかけて、私はやっと「普通の人間」になることが出来たのだ。万歳!!
(ちなみにここ半年で、大学で最も信頼していた友達に裏切られ、かつそのいざこざが遠因となって、彼女に振られるというドロドロの恋愛を経験し、全てが瓦解するのだが、これはまた後日話そう。)
社会は前提への努力を認めない話
しかし、この三年間の努力は、一切ESには書けないのである。それは、話があまりにもネガティブすぎるからだ。
実際、この話を一度ダメ元でESに書いて、専門家に添削をしてもらったのだが、「これ…企業さんからすると、話が暗すぎるし、そこからの話を聞きたいんじゃないかなぁ(苦笑)」と言われてしまった。うーん、確かにそうかも。
だが「そこからの話を聞きたい」という言葉は、ずっと自分の中に残っていた。つまり、社会や企業が言うには「「普通の人間」になれて当然であるし、それが前提だ」というのである。
実際「普通の人間」は人口のどれほどに値するのだろうか。そもそも「普通」という言葉が多数派などを指し示す言葉であることを考えると、50%以上の者を普通と言えそうだ。そこで今回は多めに見積もり、人口の80%が「普通の人間」だと仮定しよう。数字だけ見るとかなり多く感じられ、20%の「普通」に当てはまらない、「異常な人間」は、「最大多数の最大幸福のために犠牲になっても致し方ない」という考えも、ある程度の説得性を帯びてくる。
しかし、「普通の人間」というのは、社会や企業が想定する人間像の前提であって、彼らはそれ以上を求めている。となると、私のような努力して「普通の人間」になった人々はそこでふるいに掛けられ、結局社会や企業、特にその採用活動において閉め出されるのである。うつ病や、いじめの被害者、コミュ障などの社会的弱者が社会復帰出来ない、困難なのは、こうしたロジックがあるからなのだ。
こうした「普通の人間」になれない人、それ以上になれなかった人は、「異常な人間」として社会ののけ者される。つまり社会は、「弱者」性を持った人間、またはその血を有する人間の存在を許すことなく、完全に駆逐しようとする。そして同化しても、二級市民として、結局は社会の淵へと追い出されるのだ。
こうしてヴォル〇モート卿並みの社会的純血思想によって、社会は「普通の人間」の血のみを有する者のみが、構成員として認められるのである。しかし、この社会は永続的なものであるだろうか。
例えば、「普通の人間」は社会全体の人間スコアで換算した場合、偏差値50以上に値する者と定義する。そして主に企業などの採用活動では、さらにその中から上位の者を選ぶため、偏差値60以上の者が最終的に採用され、次世代の「普通の人間」像になるとする。すると次世代における「普通に人間」像は、前世代の偏差値60以上の者であるのにも関わらず、次世代の偏差値50以上として扱われる。そして採用活動では、そこから偏差値60以上の者のみを採用する訳であるから、仮に前世代の偏差値60%以上のものであったとしても、そこからはみ出て「異常な人間」として扱われる人々が出てくる。ゆえに毎世代ごとに、社会構造によって「異常な人間」が「生産」されていくのだ。
これを繰り返せば、偏差値の基準は初期の数値とは比べ物にならないほど膨れ上がり、「普通の人間」の人口は減少していく。「普通の人間」のみを構成員としている社会も、必然的に縮小を余儀なくされ、最終的には破滅か、解体の道しか残らないであろう。
おわりに
とまぁ堅苦しい言葉で偉そうにつらつらと語ったが、一言でまとめると、「うじうじしてる人間性も許されていいし、そこから頑張ってる人の努力も認められていいよね!」という話です。なんて薄っぺらい。
それに、同じような論理構造で「資本主義社会は破滅するぞ!」とか言ってた、マルクスおじさんの予言が現状外れてるのを見るに、なんやかんや「それでも社会は回ってる」になるのかもしれない。うん、多分そうなる。
いくらルサンチマンを文字に表したかのような記事を書いたって、この記事が理由で内定は出ないし、「最も努力したこと」はサークルやら何やらで、嘘交じりのことを書くと思う。でも、うじうじしながら頑張って生きてきたこと、努力してきたことはほんとだし、私はそれを自他ともに認めていける人間になりたい。
そう思いながら、締め切り1週間を切ったESから目を背けるのであった