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なぜこんなにも仕事は楽にならないのか

 どうも皆さんラバハです。アラフィフ氷河期おっさんで、文化批評なんかを書いてます。

 昨日、解雇規制緩和の記事を上げましたが、解雇規制緩和が進んだ社会とはどんな社会なのか、もうちょっと深く考えてみます。

ちなみに昨日の記事はこちらです。



解雇規制緩和が進んだら

解雇がしやすくなるということは、転職もしやすくなるということでしょう。例えば今月はA社、来月はB社、再来月はC社、へと条件のよい会社へ転職するといった働き方も可能になるかもしれません。

企業にとってもやっぱりいらないなと思ったときに、この施策はありがたいように見えます。

 雇用の流動性が高まれば、企業も採用のハードルが下がり、労働者も応募がしやすくなる。結果的にその業界が活性化することにつながり、更に働かないおじさんやモンスター社員の処遇も進み、皆にウィンウィンの関係であるという意見もありました。

 但しそうなった場合、今までの派遣労働との違いはあるのか?社会保障や賃金格差はどうなるのか?労働者の権利が阻害されていないか?など課題は山積していますので、この辺をどう理解するかを考えてみます。

権利と思惑のマッチング

 まず異論はあると思いますが、現在の日本の会社で労働組合の力は相対的に弱まっていると感じています。つまり企業のルールチェンジに対して有効さを発揮できてないように思えます。

 その理由をここでは、現代が要請する個人主義と、企業が進める構造改革が同じベクトルであるからだと論じます。

 フランス革命以後の個人の権利の拡充は、とどまることを知りません。この個人が感じる正しさは、今あらゆる古い価値観や伝統的な生活様式を変えようとしています。それは、現代に生きていれば至る所で感じることができるでしょう。
そこに正しさも感じる人もいれば、逆に違和感を持つ人もいるでしょう。

つまり働き方においても、会社に縛られることなく自由に労働したい、個人を尊重し終身雇用で縛るのはおかしい、という個人の権利と、企業の解雇規制緩和でどんどん新しい人を入れたいという思惑がマッチングしていることに気づくでしょうか。

つまり、解雇規制緩和に反対することは、会社には終身雇用で個人を守る義務があるという感覚が、我々のどこかに装置としてあるために齟齬が起きるのではないでしょうか。

では、今回の解雇規制緩和を個人の権利の拡充の一環として見たときに、本当にウィンウィンなのでしょうか?

なぜ我々の仕事は一向に楽にならないのか

 ここで市場経済の話をします。
なぜ我々の仕事は一向に楽にならないのか、という問いがあります。これだけテクノロジーが発達し、理性や合理性を獲得したのに、なぜ労働時間は変わらず、生活も楽にならないのでしょうか。それに対しての回答のひとつとして、それは経営者も市場原理にさらされているからであると答えるしかありません。

 我々が生産した商品は市場で貨幣に変えられます。そこに余剰が生まれ、その余剰を分け合って生活しています。
 例えば1,500円の生産物を2,000円で売って、その500円の利益を経営者が確保し、それを社員に分配していくイメージです。

 もしも、本当に人の良い経営者がいて、労働者にたくさん分配したとします。もっと生活を良くしてあげたいと、労働時間も減らします。すると、どうなるでしょうか。

当然商品にかかるコストが高くなります。今まで1,500円で作れていたものが、2,000円かかるようになり、必然と商品は2,500円で売ることになります。但し、ここに市場が絡んでくるため、消費者はより安いものを購買し、その会社は競争に負けてしまいます。
つまり、市場経済の構造上、どんなに崇高な人権配慮があったとしても、その形態はやがて淘汰され、厳しい労働環境の会社こそ生き残るのです。

我々はどんなに頑張って働いても、競争原理が働く限り、給料は周りよりも増えません。業種が同じであればどこへいっても給料が変わらない理由でしょう。

 以上でお分かりでしょうか。今回の解雇規制緩和は、企業の思惑と個人主義が合致しているため、反対しにくい構造ながら、転職者はほぼ給料が上がらないゲームを強いられます。

 これは今後、企業は公器という役割から、個人主義に迎合する形でしか生き残れないということも示唆しており、多様性を背景に再編を行っていくような気がしてなりません。

 また別の記事で、我々の感じる正しさについて論じてみたいと思います。


今回はここまでです。最後までお読みいただきありがとうございます。

 





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