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映画「スオミの話をしよう」~自発的対称性の破れ~


本日封切りの映画「スオミの話をしよう」を観た。
面白いか面白くないかは、言わない。
ネタバラシもしない。紳士の嗜みである。

ただ一言こういうセリフがあった。
「金持ちほど欲しがる」

某月某日、丸の内のレストランで食事をしていた時、下をみると、ボロボロの服を着た男が、路上の白いものを拾いながら歩いていた。今どき喫煙者のマナーは良くなっているから吸い殻ではないかも知れないし、電子タバコも普及しているから、ますます吸い殻ではないかもしれない。
しかし、遠目には屈んで白いものを拾っているのだから、ここは吸殻拾いをしてシケモクをする男としておこう。
炎天下である。
こちらは、エアコンの効いたレストランで、サラダとコーヒーの付いたハヤシオムライス(2000円也)を頬張っている。
果たして彼我の差はどこから何故生まれたのだろうかと考えさせられた。

他人より能力があったわけではない、他人より努力したわけでもない。
それでも借金はないし、健康でもあるし、退職金の残りを含めて僅かだが蓄えはある。不便な場所ではあるし、小さい家ではあるが、戸建ても手に入れた。
大病を患わなければ、貯金のそこがつくまでには死ねるだろうと思う。

あの男はどういう人生を歩んできたのだろう。
詮索しても始まらない。
ああ見えて、小金持ちかも知れない。事実、近所にあった屑屋(と当時は呼んでいたが、「廃品回収業」)は溜め込んでいるとの噂だった。町内のイベント時に寄付を貰いに行くと、相場よりも多めを出したそうだが、近所付き合いは少なかったそうだ。

話を戻す。
彼我の差を理由付けようとしたら、これしか思い当たらない。
「自発的対称性の破れ」である。
これは、2008年に南部陽一郎のノーベル物理学賞を受賞理由である。
どう関係するのか?

自発的対称性の破れとは、簡単に言うと「たまたま」「偶然」ということである。(多少の違いはあるかも知れないが、素人レベルでは誤差の範囲だろう)
つまり、ハヤシオムライスを頬張っている私と、シケモク男とを分けたものは偶然でしかないということだ。

であれば、私が彼であってもおかしくはないわけで、自分の境遇に安座しているわけにはいかないと思うのである。
金持ちほど欲しがってはいけない。金持ちほど、惜しみなく出さなければならないと思う。

周囲の出したがらないオヤジたちは、出すときには決まって「オレがオレが」で、そうでなければ「僅かばかりを恩着せがましく」出す。

黙って出せばいいのだ。喜んで捨てればいいのだ。それが喜捨というものだ。

所詮、たまたま居座った安楽椅子ではないか。手放すのを惜しんではいけない。

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