自分を理解して、優しくなる

ここ1ヶ月くらいの中で、自分のメンタルが上がったり下がったりと「まるでジェットコースターのように」という言葉がここまで合うのかというくらい自分という人間が細かく入れ替わり続けたような、そんな日が続いた。

そんな中で、大切な人達に助けられてなんとか現在少し落ち着きを取り戻しているのはとてもありがたいことだ。

それと同時に、自分の中に渦巻く親の呪いみたいなものも少し見えてしまったのは、悲しくないわけではない。

だが、それに気づくことができなければ、きっと私は辛いまま、辛いことに気づかないまま、本当の幸せというちょっと気取ったような言葉にすら気付くことができなかったわけだ。

ただそれでも、「親を捨てる」的なバイオレンスな表現が私の中に浮きすぎて来なかったことはまだ幸いなのかもしれない。

親は捨てないが、多分深い干渉もしなくなるだろういつか。

親を助けられない自分に悔しさを感じつつ、自分の中にそのような余裕がないことに気付けたことだけは良かったなと思う。

もしそういうのがわからずに、ただがむしゃらに親を助けるんだとなっていたら、おそらくどちらもうまくいかずに共倒れしていただろうから。

知らぬが仏だと自分に言い聞かせる。

自分の中の子供と、少しだけ意思の疎通ができてから、自分の中の子供に優しくなれている自分に気付く。

(この話をすると、自分という単語が多すぎて自分でもよくわからなくなる)

今まで、自分は母親と同じことを自分にしていたんだと気付く。

完璧を求め、良い人間になることを求め、失敗を一切許さず、とにかく普通であれとひたすら自分に求め続けていた。

人に迷惑をかけるな、人に甘えるなと、自分が子供の頃嫌だと思っていたことを、自分自身にいつのまにか言い聞かせてしまっていた。

そんな甘えてたら嫌われるぞ、そんな暗い顔してたら嫌われるぞ、どちらにせよお前は好かれないんだからせめて嫌われないように、いつも笑っているべきだと。

だからこそ、こんなにメンタルがぐちゃぐちゃになっても、とにかく自分でなんとか整理するべきなんだという自分の中の声に反して、自分の中の子供は誰かに助けを求めるべきだと叫び続けた。

その助けが人に届いて良かった。

気持ちに余裕が少しだけ生まれた時、自分の中の子供が求めていることは、自分が過去に求めていた大切なことだったんだと気付かされた。

子供だったのは自分だったのかもしれない。

怖いからこそ、現状を維持すべきだと思い込んでた。

でもそれはただの逃げで、本当の解決にはつながらない。

自分と対話して、結構本当に子供と対話している感覚を感じる。

自分の中の子供の要望に、背中を一押ししてあげる感じ。

うまく伝えられなくても良いんだよ、言ってみなよと、きっかけは私が作る。

その途中から、子供の私に切り替わる。

きっかけさえ作ってあげたら、なんとかして伝えようと頑張ってくれる。

うまく伝わって良かったね、と褒める。

だから大丈夫だって言ったでしょ、と笑う。

別人格のつもりはないけど、なんだか子供を育てているような、そんな感じがまた面白い。

うまく伝わって嬉しいと言う気持ちと、伝えられて良かったねという見守っていて微笑ましくなるような感覚。

こうやってみて気付いたのは、自分の本当の気持ちと、外に出している気持ちが全くもって正反対だったのだということ。

この私の中の子供がいつか自立したら、私自身はどうなるのだろうと思ったけど、多分その子が大人になる頃に、私は私になるのだろう。

大人に作られた私じゃなくて、私が作った私になれるのだろう。

不思議な感覚なんだけど、それが面白い。

すごくオカルトみがあるなと自分自身思いつつ、でも本当にそんな感じだから、オカルトもバカにできないなと苦笑する。

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