スオミの話をしよう を好き勝手に振り返る
スオミの話をしよう
を、見てきたので、それについて好き勝手にあーだこーだ言おうや(シラフ)。
解釈違いや誤表記、記憶違いなんかは大目に見ておくれやす。
昭和平成そして令和。三谷幸喜のつくる喜劇は、時代と共に進化を続けている。
三谷の十八番は「キャスティング」だと私は思っているが、今回もやっぱり、よくもここまで…と感心せざるを得ないくらい、脚本(ホン)と役者と三谷演出の相性が良いのである。
閉じられた空間で同時多発的に起きる「どうでもいいこと」と、普通では無い状況下におかれた人間の自然なリアクションを、あくまでも笑いで描き切った。
大の大人が、おかしなことを大真面目にやるのが、面白いのだ。
創作の軸足を舞台に置く三谷だけあって、演劇的な表現、空間の上下や奥行きが効果的に使われる。その度にカメラ(と、見ている我々)も忙しく動き回る。
まるで演劇を見ている時のような一種の緊張を覚えながら、スクリーンを見ていた。
キャストについて。
長回しのカメラの前で巧みに、且つ瞬時に、5つの人格を演じ分けてみせた、スオミこと長澤まさみ。
正直、鳥肌が立った。
2番目と5番目などはかなり微妙な違い(わたし的には)なのだが、それすら明確に演じ分けた。
5つの人格の他に、「(おそらく)本来のスオミ」まで登場し、見ているこちらが混乱しそうになったが、視覚による演じ分けで、見ているものを取り残さなかった。
三谷作品での長澤は、2016年大河ドラマ「真田丸」での きり役が記憶に新しい(が、もう8年前のことである。恐ろしい)。
きり は長澤への当て書きだったと三谷はのちに明かしているが、今回のスオミも、もしや…という気がした。
長澤の強みである 瞬発力のある演技と絶妙なサイコ味なくして、スオミという女性は完成しないだろう。
長澤まさみの話をしよう、というタイトルで彼女の怪演を語る会を開きたいくらい、長澤まさみの映画だった。
中学生の頃から現在に至るまで、常にスオミの傍にいたのが、宮澤エマ演じる 島袋薊。
自称・スオミの顧問弁護士なのだが、これが本当なのかは小さな謎として残る。
中学時代の同級生(2人の制服姿は必見)に始まり、ある時はスオミが働く店(違法な営業で摘発された)の従業員、ある時はスオミの従姉妹(中国人)、ある時はスオミ夫妻を担当したリフォーム屋のインテリアコーディネーター(旦那のヨイショが上手い)、またある時はスオミのママ友(広い廊下に息切れ)。
つまり、神出鬼没なのだ。
スオミは彼女に絶対の信頼をおいていた。
果たしてその信頼は、薊が友達だから、弁護士だから、生まれたものなのか?
それだけではないような、気がするが。
宮澤は舞台での活躍が目立つだけに、映像作品で彼女を見られるのは新鮮だ。
終盤、ロマネコンティの入ったグラスを傾けながら踊るシーンがあるのだが、特に音楽があるわけでもなく、おじさんたちの会話だけが聞こえるあの空間で、1人で踊り切ったのはさすが。
ちなみに、撮影時に三谷に突然リクエストされ、即興で踊ったものだったそうな。
願わくば、スオミと薊の関係にスポットを当てたスピンオフ編を見てみたいものだ。
ラストを飾るミュージカルナンバー「ヘルシンキ」で、スオミが3億を持ってフィンランドに行きたかったのは本当だったのだと理解。
父親の祖国、そして自らの名前そのものであるフィンランドで、今度こそ本当の自分を取り戻そうとしていたのではないか、と。
もちろん、その傍らには薊がいるのだろうが。
ヘルシンキで本当の自分に出会えると信じたスオミと、今まで通りに彼女を見守り支えるであろう薊。
ひょっとして、薊といる限りスオミは本当の自分に出会うことは叶わないのではないか?という気もする。
「薊ちゃんと2人で老人ホームに入るの」と話すスオミ。
その、信頼に似た愛を受けとめ、愛を以て彼女を確実に導いてきた薊。
えっ。
もしや。
ひょっとして、この作品…
奥の方に、盛大に百合が咲いているのではなかろうか。
5.5番目、6番目の男まで暗示された挙句、実はスオミが心から愛しているのは、そもそも男ではないのでは、という邪推が頭をよぎった。
そうなると、また違う見方ができる。
マイノリティが、マジョリティとして生きていくために自分を偽りながら社会の波に順応していく。
日本において未だに遅々として進まない、LGBTQ+への理解と受容。
デリケートながら無視できない部分に、三谷はメスを入れたのかもしれない。
ここまで書いて、ふと思い当たってネット検索をしてみた。
ああ、フィンランド。やはり。
同性婚が可能な国である。
ごちそうさまです。
三谷さん、この作品、ぜひ舞台化をお願いします。