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「あなたは、あなたであるということだけで、素晴らしい存在なのよ」
今日の内容は主にSOSUで学んだことなのですが、わたしがフォルケホイスコーレの学びの中で、一番日本に持ち帰りたいなと思ったお話です。
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「何もしない自分が素晴らしい存在だって思えてる?」
この日の授業で出てきたのは、「自信」と「自尊」の話。なんとなく、「Doing」と「Being」の話に似ている気がしました。
自信:できること、やってなんぼ
自尊:自分すべてを大切にすること
日本人は「自信はあるけど自尊がない人」が多いと思うんですよね。わたしもまさにこれでした。というか、そもそも日本では「自尊」という言葉自体があまり認知されていない気もします。
でももしあなたが、
・存在に不安を感じている
・そのままの自分を認められない
・何かわからないけど、変わらなきゃと思う
・新しいチャレンジをして失敗するのが怖い
・役に立たない人間だと思われたくない
って思っているとしたら、それは「自尊」が不安定だからです。
自尊が不安定だと、「どうにかしなきゃ!」という本能が働いて、自分の存在価値をアピールしようとするそう。
けれど、自尊があれば、「失敗しても大丈夫」って思えるんですよね。それはつまり、「自分の存在が安定している」ということ。
何もしなくても、あなたはあなたのまんまで素敵な存在で、あなたの存在価値は本来揺らぐことはないんですよ。
何かに挑戦したとして、うまくいかなかったらそれが合わなかっただけ。「あなたができること」と「あなたの価値」は関連しないよってことです。
日本で生きていると、何かを断られたとき、自分が否定された気持ちになること、ありませんか?
わたし、めっちゃこれでした。
でもそれって、「そのことに興味がない」もしくは「タイミングが合わなかった」というだけなんですよね。別に自分の存在が否定されているわけでもなんでもない。
受験も一緒なんです。ただ、その学校に縁がなかっただけ。あなたの存在が否定されているわけではまったくないのです。もしかしたら、もっとあなたが輝ける場所がある、ということかもしれない。
「自信」と「自尊」の区別が自分の中でついていると、生きることがずっと楽になる気がしています。
これ、新しいことにトライするときとか、人を集めるときとか、何かビジネスをはじめる人とかはめちゃくちゃ大事なことだと思うから、なんとなくでも伝わるといいなぁ。
その人にとって今日という1日が意味があるものになるために
あるとき、授業の中で老人ホームの施設見学に行ったのです。
そのときは、「マータメオ」という専門セラピストがくる日で。マータメオとは、人間と人間の間に起きるさまざまなシチュエーションをビデオで撮って、分析するお仕事。
フォーカスするのは、「何が良かったのか」だけ。数あるシチュエーションの中から成功するコミュニケーションを認識して、発展させる土台にしていく。限界を決めるのではなく、可能性を見ていく支援なんだそうです。
その方が語ってくれる言葉がすっごく素敵で。
その人にとって1日が意味があるものになるために、私たちはどのようにすれば良いか? を毎日考えているの。
その人がそれまでに過ごしてきた人生にヒントをもらってね。
例え、認知症が何かの限界を決めるものだとしても、諦め感を味わうことなくその人にとって意味のある1日を過ごすことは可能なのよ。
勝負は「毎日どれだけその人がキラキラする瞬間を創造できるか」。
その積み重ねが人生の質を生み出すと信じているの。
「その人が今どうしたいのか」をキャッチすること。
私たちの1番の仕事は、目の前にいる人に価値があると伝えることなのよ。
その人の存在価値を認めることは自尊につながるから。
機能的にできることが少なくなっていく中で、「自分の存在」に価値を感じてくれる人がいること、自分のことを理解してくれる人というのはとても安心感を抱かせてくれるもの。
こどもは発達していくもの、認知症は衰えていくもの。ある一定の時期になると同じレベルになるけれど、その人はその人の歩んできた人生がある。
できることが「こどもレベル」であったとしても、「こども」として扱うのではなく、その人の長い人生の歴史のうえで生まれている出会いだからこそ、「どこで出会えているか」を把握して環境づくりをすることが大切なのよと話してくれました。
でもこれって、介護に関する話だけじゃなくって、教育も同じなんじゃないかなって。
「あなたがあなたのままで素晴らしい存在だよ」って伝えること。何かができることではなくて、その人という存在に対しての全力肯定がもっとあってもいいんじゃないかなって思いました。
これって今の日本の教育にすごく欠けている視点だし、予測不可能な未来を生きていくからこそ、自分の存在が安定しているっていうことがもっともっと大事になってくるはず。この視点にはわたしたちが学ぶべきことがたくさんある気がしました。
コロナ禍のとき、この施設では、マスクはしていたけどハグも接触も普通にしていたんだそう。それは、孤独感を味わって死ぬよりコロナで死ぬほうがいいと決めたから。これ、めちゃくちゃ北欧っぽい気がします。
スウェーデンの人たちもたしか普通に日常生活を送っていました。その裏にどんな想いがあったか、ほとんどの日本人は知ることもなく、ただその状況を叩いているだけだったけれど。
デンマークのメタ首相はSOCIAL MINDという言葉を使い、自分の欲求を実現する前に、社会に関心を持ち、それらが与える社会的な影響を考えて欲しいという話をしていたんだそう。「個人主義」の国だからこそ、出てくるアナウンスっぽいですよね。
一方で素敵だなと思ったのが、ロックダウンのときの話。デンマークの人たちは18時になるとみんなテレビをつけて窓を開け、ホイスコーレの歌を歌って、「みんなでいる」というつながりを感じていたんだそうです。
コロナって、その国の一番弱いところが露呈する機会でもあり、「その国の価値観が現れる機会だった」と平田オリザさんが言っていたけれど、本当にその通りだなって思ったのでした。
会話の背景にあるものに目を向ける
コミュニケーションは、言語が3割、非言語7割って言われています。さらにその言語を分解すると、27%はトーン、3%が言葉です。
つまり、聞こえている音としての「言葉」だけで、人間はコミュニケーションしているわけじゃないよってこと。
「わたしが伝えようとしたこと」と「相手に伝わったこと」が同じかどうかを確かめることはあると思いますが、
そもそも「わたしが伝えようとしたこと」が「相手に伝わる言葉」に変換できているか、「相手の耳に届いた言葉」が「相手にちゃんと伝わっているか」までがコミュニケーションの範囲だってことです。
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Aさんが●を伝えようとしても、口から出た言葉は■かもしれない
Bさんには▲が聞こえてきて、解釈の段階で★になるかもしれない
その言葉の意味が変わってしまう背景には何があるか?
それが、「HABITUS(ハビトゥス)」です。
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コミュニケーションエラーが起きるのは、会話の背景にはそれぞれのHABITUSがあるから。HABITUSとは、見えないリュックサック(個人でも意識しない性質や態度、習慣)とも言われてい流。
その人自身も、あまり意識していない性質や態度、習慣があるので、同じ言葉でも理解している内容は異なります。結局人は、これまでに経験した自らの価値観のなかで、その言葉を捉えているだけだから。
「相手のHABITUSに何が入っているか?」を見にいくこと。
この話は教育や介護の文脈で登場したもので、専門職の人は特にそれを理解したうえで相手の話を聞かないといけないよね、っていう話なのですが、これって誰にとっても使えるスキルなんじゃないかな?とも思っていて。
「どういう人生を送ってきた人なのか」
「その人が理解している社会はどんな世界なのか」
目の前で行われる言葉のやり取りだけでなく、そういった背景を想像しながら話すと、コミュニケーションの在り方は少し変わってくる気がします。
「支援という言葉を使うなら、まずその人の視点でその人の世界を見てから導入すべきだ。さもなければそれは自己満足でしかない」
同じ文脈で使う言葉に、「その人の靴を履く」という言葉があります。これ、ブレイティみかこさんの本でわたしは知ったのですが、シンパシーとエンパシーのこと。
シンパシーは感情のことで、日本語で言うと「同情すること」です。自分の立場のまま、相手の気持ちに共感して、寄り添うこと。
エンパシーはスキルで、日本語で言うと「共感すること」なんですが、ちょっとこれは個人的にわかりにくいと思っていて。自分とは異なる価値観であっても、相手の立場に立って、その気持ちを想像できる能力のことです。
自分と一緒の人ってわかりやすいし、同じ感情も抱きやすい。けれど、違う人、違う意見の人に対しても、ちゃんとその状況とか気持ちを想像して、理解しようとする行動が大事だよねってこと。
靴が自分次第で脱げるように、その場に合わせて「脱いだり履いたり」できるのが、スキルと言われる所以なんだなと思いました。
その人のHABITUSがその人の価値
さっきも書きましたが、HABITUSは見えないリュックサックと言われます。
相手の話に興味ない、聞きたくない、っていうのを態度で表すとき、あなたはどんな風に振る舞いますか?
多くの人が、「目線を逸らす」とか「姿勢を変える」とか「相槌をなくす」とかだと思うのですが、実際に「話を聞かない態度」を教わった経験はないですよね? 教わってないのにやり方がわかるのは、それがひとつのHABITUSだからです。
けれど、日本って、すごくHABITUSがすごくわかりにくい社会なんですよね。
単一言語単一民族で、宗教意識も弱い。そして、日本は経済大国だから「ある一定の基準に照らし合わせて価値を考える癖」がある。それが「数値化」っていうやつです。違うHABITUSを持っているかもしれないのに、そこにはなかなか目が向かず、一つのものさしで人を捉えようとするんですね。
そうなったときに、どうしても「自分に足りないこと」にフォーカスが当たる社会になってしまう。
人間のHABITUSに目が向きにくく、HABITUSを価値とみなす意識が薄いから、「良いところが違っていて」「それぞれに価値がある」ということが、とっても理解しづらい社会なんだそうです。
デンマークでは1人ひとりの人間に価値を置いているから、価値に上下をつけることはあまりないそう。
ヨーロッパだといろんな人種や民族や言語が混ざっているからこそ、その人が持つHABITUSはその人を形作るめちゃくちゃ重要な要素なんですよね。
このとき、それまでわたしがやってきたことって全部、「自分のHABITUSを知る作業だったのでは?」と思えたのです。
旅もアートも、自分のHABITUSを知る「触媒」だったのかも!
自分のいる場所から出て、違いに出会って、自分のことを知るってこと。
それをジャッジなく経験させてくれるのが、旅とアートなんじゃないかなって思っているのですが、それが一つにつながった瞬間でした。
わたしはこの2つに出会って、自分という人間らしさがわかってきたので、そのギフトをもっとわかりやすく言語化して伝えていけたらいいなぁって思った瞬間でもありました。
すべてのものに意味づけをしているのはわたし自身
パーソナルリーダーシップで、1日だけきてくれた代理の先生の授業がめちゃくちゃ良かったのでそのことについて。
今、パッと思いつく名詞を16個並べてみて。
上から2つずつ、さらに言葉を連想して書いていく。
最後導き出された「ひとつの言葉」はなに?
みんな、同じような生活をしていて、同じ部屋で同じ作業をしているので、最初に書き出す言葉はちょっと似ているんですね。
でも、連想を重ねていくうちに、だんだん自分に近いものになっていくんです。
何かをつなげるときには、自分が存在しているのよ。
すべてのものに意味づけをしているのはあなた自身。
だから思考を重ねるほど、「自分」が現れてくるはず。
すごいシンプルなワークなんですけど、ものすごくわかりやすく「自分」が現れてくるワークでした。
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もう一つは、人間関係をつくるには、スキルが必要ということ。
人間関係が幸せを決めるというリサーチがあるけれど、それは年々難しくなっている。だからこそ、わたしたちはソーシャルフィットネスプログラムを学ぶべきなのよって言われました。
その後、グループに分かれて、他者との関係性構築のためのポイントを話し合いました。机上論になりがちなテーマだからこそ、具体例を添えて話してねって。最終的には、グループを変えて、全体で集まって、このクラスで大切にしたいルールはこれだねっていう統合作業までできて。
数時間でここまでまとまるのは、先生のファシリテーション力の賜物だとは思いつつ、結局こういう対話スキルって実践で学んでいくしかないんだよなぁと改めて思わされました。
結局、この先生が言いたかったことはこんなこと。フォルケホイスコーレの理念ってこういうことなんじゃないかなって思いました。
ちゃんと自分とつながっていなければ、本当に感じていることややりたいことはわからないはず。
だから、まずは自分という人間を知るということが大切。
その上で誰かと共に何かをすること(共創)。
相手の話からもまた、自分を知ることができる。
相手を知り、尊重し、わかりあう努力をする。
その過程に学びがあるということ。
そのときに、「Bildung」の話をしてくれたんですね。
Bildungはグルントヴィが影響を受けたドイツ哲学の概念で、ドイツ語で「教養」とか「自分を形成する学び」みたいな意味なんだそう。
世界には3つの人種がいます。
1つ目は、自分の感情に従う人。
この人は、感情が自分を支配するから、自由ではない。
2つ目は、他人の言葉や社会規範に従う人。
この人も、人の期待がのしかかっているので、自由ではない。
3つ目は、それらをつなげて交渉する人。
自分のことも、相手や社会のことも、両方分かった上で、「自分が何をしたいのか」を考えられる人がいちばん自由。
デンマーク人であることを自覚し、自分たちが国をつくる一員であるということを自覚させるような、人々の手に力を取り戻すような学びが必要だと思ったからこそ、フォルケホイスコーレのような場所をつくろう、ってグルントヴィは思ったのだと感じるのです。
それから、この先生が教えてくれたことがまだいくつか。
"MAN IS NOT AN APE DOOMED REPEAT HIMSELF TO ETERNITY, BUT A DIVINE EXPERIMENT BETWEEN DUST AND SPIRIT"
(人間では猿ではない。動物は永遠に物事を繰り返すことしかできない。
人間は神様の実験のようなもの。精神的なものと物理的なものの間にいる)
人間の欲望には「belonging(所属)」と「contribution(貢献)」があり、人間は相手や社会に影響を与えられることに責任を持ち、それを楽しむことができる唯一の生き物なんだよって話してくれました。
たった1日しか会っていないけれど、めちゃくちゃ素敵な先生でした。
わたしはね、その行為の裏側にあるものをもっと知りたいし、それぞれの可能性をもっと引き出したいと思っているの。学びを通して、その人の中にある素晴らしさをもっと外に出していけたら最高よね。
この先生がこの夏に新しく本を出すそうなので、余裕があれば読んでみたい…(英語だけど)。
続く。