【自分のレシピ③】自分のことを掘り下げることは、自分を生かす方法を考えること
前回は自分を見つめにいくお話だったのですが、今日は主に未来を描いていくときの話。
▼前回のお話はこちら
だんだん、白いシートを埋めていくうちに、わたしのやっていたことは、自分のブランディングであり、自分の仕事をつくることだったのだと気づくのです。
(まさに、わたしをどう料理していくのかを考えている段階でした。)
わたしってどういう人間だっけ?
肩書きではない「わたし」を知っておくこと。
これは、自分でビジネスをするしないにかかわらず、これからは全員やっておいて損はないんじゃないかなと思っています。
そして、わたしは会社員を辞めるまで、これをものすごく怠っていて。
企画のコンセプトを組み立てるのは得意だけれど、自分という人間を「見える化」する作業はすっごく時間がかかったし、今でも継続中です。
そしてわたしの場合は、素材がたくさんありすぎて、何を「魅せる」のかがめちゃくちゃ難しかったのです、、(情報量が多くなりがちで、削れないタイプ)
よく言われるのは、キーワードを3つに絞るということ。
このときにわたしが選んだキーワードは、「旅」と「アート」と「コミュニケーション」でした。
とはいえ、生きている限り変化していくのが人間なので、これはずっと更新し続けるものかもしれないなって思っています。
まず、わたしが誰か知ってもらうことからはじめないとなと思い、考えたのはこの3つのこと。
このとき、new meメモに書いていたのはこんなことでした。
これがプロフィールの元となっていくのですが、SNSは本当にぼちぼち、そのときのプロセスはメモに残していたのものを、今やっとここに書き直しているくらいなので、、
全然すっっっ!とはできませんでした・・・。
どんな世界をめざしている?
自分がめざしている世界、理想と感じる世界を知ること。
これは、自分で何かをはじめるとしたら、一度しっかり考えてみたほうがいい「問い」だと思います。
「考える」というよりは、自分が純粋に願っている世界の在り方に「気づく」という方が近いかもしれないです。
こういうのをメモしていくと、だんだん自分の思考の枠が見えてくるので、そこから軸になるビジョンを抽出していく感じです。
わたしの場合は、会社員のときにもうこの「問い」に出会っていたので、このときはむしろ、それを掘り下げていく作業でした。
ちなみに、この「問い」がわたしにとって軸になるなって気づけたのは、いろんな場所でいろんな人に出会うたびに同じ「問い」に巡り合っていたから。
それを探しながら生きてみるのは、なんだか楽しそうだなって思えたから。
そしてその「問い」とは、
ということ。
会社員をしていると毎日の仕事に追われて、なかなか自分のことってちゃんと考える機会ってなかったりします。
でも、就活や転職のタイミングだけでなく、想像以上に大人になってから迷っている人は多いんだなってあるとき気づいたのですよね。
どこか、自分で生きることを諦めているというか。
自分の可能性をもう見ないようにしているというか。
チャンスは目の前にあるのに、わざわざ気づかないふりをしている人がめちゃくちゃいるということに。
誰か一人のことではなくて、すごく「よくある」ことだからこそ、もうちょっとここが軽くなったらいいのになぁって純粋に思って。
そのことを自分のできることで、少しずつ解いていけたらいいなと思うようになったのです。
その理想を、どういう切り口から実現していく?
今度は、その理想を「わたしならどんな切り口で実現できるだろう?」って考えてみました。
これは、自分のプロフィールをつくったり、リソース(資源)を見直していく中で、出てきたことと結びつけていくのがいいかなって思っています。
そして、わたしが自分の経験を、誰かに還元できそうなキーワードとして、なんとなくしっくりきたのがこの3つでした。
①「学ぶ」と「働く」の本質を見直すこと
わたしは、教育学部を出て、教育会社で働いていたというバックグラウンドがあります。教育メディアでライターをしていたこともあります。
就活・転職を経験して、会社員としてトータルで13年勤務して、人材メディアの現場ディレクションをしていたこともあります。
たぶんこの時点では、ちょっとだけ人より多く「学ぶ」と「働く」に興味がある、くらいの人間だったと思います。
でも、ちょっとだけ周りと違っていたのは、わたし自身が「学ぶこと」も「働くこと」も大好きだったということ。
なぜ、周りの人たちがみんな、「学ぶこと」と「働くこと」を「こなす」ようにやっているのか不思議でしょうがなかったのです。
違和感は感じていたものの、このときのわたしはそれを説明する「言葉」も、その違いが生まれる「理由」も持ち合わせてはいませんでした。
けれど、あるとき北欧に興味を持って、フィンランドの教育視察ツアーに参加したことで、今までとはまったく違う「教育観」に出会うことになったのです。
そこから、対話型の学びに興味を持つようになって、デザインやアートといった分野にも興味を持つようになりました。
その延長線上で、デンマークにある「人生の学校」と呼ばれるフォルケホイスコーレに行き、「ホリスティックな学び」を実践するイギリスの大学院シューマッハ・カレッジのプログラムにも参加することになりました。
そこには、一人ひとりの存在を信じて尊重し、「人生」について考え、「愛」について教える学びがありました。
これらの経験を通して、わたしはやっと、ずっと探していた「教育観」や「仕事観」に出会えたのです。
そういうことを経て、わたしの中で見えてきたのは、
ということでした。
この2つの言葉の意味が変われば、きっと世界の「見え方」は変わるし、「生きること」との向き合い方も変わるのでは? と思ったのです。
②「自分であること」からはじめるということ
日本人は、「調和」重視の教育を受けてきているので、これ、めちゃくちゃ難しいんですよね、、、
ある一定の基準に揃えることが目的になっている教育では、「同じであること」にすごく価値が置かれてしまうので、誰かと「違っていること」がすごく悪いことのように感じてしまいます。
けれど、例え「同じこと」をしていたとしても、その裏にある「想い」やそこに至るまでの「プロセス」は同じではないはずなのです。
Doingは誰かの模倣になりがちですが、本来Beingはその人の存在なので、絶対オリジナルであるもの。このことを大切にできる空気感がもう少し広がっていけばいいなと思っています。
北欧のデンマークとフィンランドに行って強く感じたことは、幼少期からその人の「個性」を大切にする教育が行われていたということ。
一人ひとりがちゃんと生きるということからはじまっていること。
そして、隣にいるその人も、大切な一人の人間であると思えていること。
「その結果として、よい国がつくられる」と信じる価値観があること。
この2つの国は、戦争で国土や資源が奪われるという経験を経て、「人こそが資源である」という価値観を見出しているのですが、わたしたちが学べることが本当にたくさんあるなって思うのです。
(もちろんそれがすべてうまくいっているわけはないけれど)
わたしたちは「調和」することはもうできるはずなので、もう一度「わたし」に戻ることが必要なんだなって思うのです。
目の前に見える世界に不満があったとしても、「あの人が△△だったら」「社会が××だったら」と言ってきる限り、外側は変わらないのです。
けれど、もし「わたしが〇〇だったら」という主語ではじめるなら、それは変えられる可能性がぐんと増えます。
「わたしという存在」を軸に置くのは、まったくわがままことではないのです。
まずは、こういうアンテナを磨いていくこと。
わたしという存在はただそれだけで価値があると信じること。
その上で、本当に大切にしたい価値観や、望む世界に気づき直すこと。
そこから起きてくる行動は、もう誰かの模倣ではなくオリジナルなもので、きっと誰かを動かす力になっていると思うのです。
③自分という存在を、いろんなカタチで表現すること
自分が本当に大切にしたい価値観や、自分が望む世界が見えてきたら、ぜひそれを「表現」してみてほしいと思うのです。
「わたしなんか」は禁句です。
「わたしだから」表現できることがあるのです。
イギリスのシューマッハ・カレッジで、創設者のサティシュに教わったことは、「誰もがアーティスト」ということでした。
それはつまり、誰もが創り手であり、創造主であるということ。
わたしたちの手は、いろんなものを創り出せるのに、現代に生きるわたしたちはそのことを忘れてしまっているんですよね。
現代社会に生きているとどうしても「消費者」になってしまいがち。けれど、「消費者」になった瞬間、周りのことに文句が出てきます。
もしあなたが周りに不満を持っていて、その現実を変えようとしないでいるなら、それはあなたの目線が「消費者」になってしまっているからかもしれません。
わたしは、デンマークの学校にいたときにセラミック(陶芸)の授業をとっていたのですが、「何をつくろうかな?」って考えたときに、「つくる」前にあるのは「イメージする」行為だ、ということにふと気づいたのです。
それを今、小さく経験しているのが陶芸で、デザインとか創作行為にも通じる概念だよなーって思えてきて。
自分の手で、何かを創り出せると信じられる人は、たぶん、自分の望む世界も、自分の手で創り出せるんだろうな、、と思うようになったのです。
自分を表現する方法は、一つではありません。
言葉を書くことでもいいし、話すことでもいいし、歌うことでもいい。
絵を描くことでも、ガーデニングでも、装飾でも、食事をつくることでもいい。
自分が楽しんでできることなら、本当はなんでも良いと思っています。
自分が「創り手」だということに気づき直すだけで、きっと世界の見え方はずっと明るくなると思っているのです。
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