この夏に考えたこと − それでも私は物を売る −
ご存知の方も多いとは思うのだが、私は個人で雑貨店を営んでいる。
個人で店を営んでいる以上、個と公が拮抗するという毎日なのだが、この夏は個を優先させて頂き店の営業日がずいぶんと少なくなってしまった。
勤めているわけではないので、お客様へのお詫びは生じるものの個を優先させることは容易である。しかしシビアな話、店を開けなければ収入はないし(尤も店を開けていても安定して収入があるわけではないのだが)、収入がなければ生活は苦しいものとなる。
それでも、身体はひとつというわけでこの夏は店の営業日を、減らした。
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では何をしていたかと言うと、自宅の転居と身内の弔いである。
見舞いも含めて地元と京都を行ったり来たりし、京都にいる間は荷造りに追われた。幸い、娘は夏休み期間中だったため、多少生活リズムが夜型になったとしても娘の体調に影響することはなく本当によかったし、故人とはとても良い形でお別れが出来たと思っている。
そして、久しぶりに店から離れることでいろいろなことが見えた。
特に転居にしても遺品の整理にしても、たくさんの物と対峙し、その多くを処分するという作業を進める中で、物を売るという自分の仕事に疑問を感じる瞬間が多く、遣る瀬無い思いを抱えずにはいられなかった。
そのような日々の中で考えた「それでも私が店をやる理由」について今回は書いてみたい。
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私はかつて「いつ使うかはわからないけれど、ただこれを所有していることで心が晴れやかになる」というようなものを大量に収集していた。
それは例えばお気に入りの店の包装紙であったり、旅先で見つけた置物であったりという類のものだ。
今でもそういったものを愛でたい感情にかられることがあるが、子育てをする中で幾分か減っていき、どちらかというと実用性の高い愛用品にこだわりと持つようになった。例えば、日々使う筆記具は値段の安い高いや希少性といった尺度ではなく、自分の好きな書き心地のものを追求して購入する。それを毎日携えることで仕事や日々の暮らしがスムーズに運ぶようになるという流れに心地良さを感じるのだ。
先の例も現在の例も、自分にとっての「お気に入り」を探し、出会い、自分のものにするという一連の作業は楽しく、私にとってそれを携えることで日々安心したり頼りにしたりする懐刀のようなものなので欠かすことが出来ない。
そして懐刀である以上誰かにそれを見せたり、公表したりするものではなくて、あくまでも自己満足としての楽しみだったのだが、店をやることでその楽しみを誰かと分かち合うという作業に昇華した。品物の全ては私が選んでいるので、お買い上げ頂いた方の愛用品となるのであれば、この上ない幸せなのである。
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「そんな自己満足のために店をしているのか、全くけしからん」と言われればそれまでだ。しかも営業日だって少ない。自分勝手な店である。
しかし、もし1人のお客様が当店のセレクトに共感して頂き、かつお気に入りの文具や日用品に出会えたのなら、もしかしたらその方が自力でその「お気に入り」に出会うまでに費やさなければならなかった買い直しの数々を短縮できたのかもしれないし、そうなることでお金や物の無駄遣いが防げたかもしれない。
ここ数年で流行している「ミニマリスト」というスタイルも、元々はかなりたくさんの物を所有したり使ったりして目の肥えた人間がなせる技だと思うのだ。多くのものに触れたからこそできる取捨選択が、そこにはある。
物を売っているようで、長い目で見たら物を減らしているというと偏った表現になるかもしれないが、愛用品を定めるというのはやみくもに買い物をしない一つの手立てだと私は思っていて、その手助けができるのなら嬉しい。
もちろん、私が雑貨店をしている理由は他にもあるのだが、今回深く考えたのはそんなところだ。
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河井寛次郎の言葉に「物買って来る 自分買って来る」という一節がある。とても好きな言葉だ。私にとっては買うという行為も自分の表現だし、売るという行為も自分の表現になっている。
しばらく休んでいたが、今日からまた店に立つ。
ちょっとした意思表明も兼ねてのコラム。今回も長文にお付き合い頂きありがとうございました。
(おわり)