喪失
なにかを失うということは怖いことだ。なんと言っても痛みを伴う。
親しい人の死、別離、考えただけで心が震える。
そんな喪失感を重ねて小説を書こうと試みている。と言ってもたくさんのひとが次々に死ぬわけではないのでご安心を。ひとりの少女がいくつかの死や別離を乗り越え、知らない心の澱みを抱えていく話。
以前、書いたけれど小川洋子さんは喪失の話が上手いと思う。村上春樹さんも。失われていくとその果てになにが残るのか、それが問題だ。
先日、娘の大学のリモートで作品の講評会をやっていた。その講義はピカソのように自由に、見た人が一見なんなのかわからないようなデフォルメを施した絵を描くというものだった。
うちの子は抽象画が得意なので嬉々として難なく描いていたけれど、中にはどうしても進まない子がいて、なぜかと聞いたらどうしても写実的にしか描けないというのだ。
彼女の中ではこれまで見たものを見たままに描くことこそ正しかったのだと思う。もちろんそういう分野はある。しかしその講義はデフォルメ、例えばピカソのキュビズムのような自由な絵が求められていたので、その子が言われたのは「あなたが写真のように絵を描く。どんどん上手くなって写真と違わなくなる。それでその時、何が残るの?」。つまり美術性の話だ。
大学には写真科もあるので、本当にこの講義限定の話だと思うのだけど、わたしはそれを聞いた時に、その子はなにか大きなものを失ったのではないかと思った。それまで自分の芯にあったもの。そのうちの大切ななにか。
先生が間違っていたとは思わない。例えば写真だって美大の写真科であれば芸術的な写真が求められるだろう。
けれど一方で細密画というリアリティを追求した絵があるのも事実だ。しかしその絵にも、小説にあるような『感動の中心』があるように思われる。
だとすると、ただ写真みたいに上手い絵というものは弾かれるのかもしれない。
小説でもそうだけれど、そこに、そのひとにしか描けないなにか、がなければならないのではないか?
その子はその日、泣いたかもしれない。彼女の抱えた喪失感が、彼女に良いものをもたらしてくれるといいと思う。