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一首評:吉田恭大「わたしと鈴木たちのほとり」より
人々がみんな帽子や手を振って見送るようなものに乗りたい
穏やかな時間を心から希求するようなうただと思う。
まず、初句から四句目までを使って息の長い比喩がうたわれる。これを読んだひとは「人々がみんな帽子や手を振って見送るようなもの」として、何を想起するのだろうか。
私の場合は、空をゆっくりと進む飛行船が頭に浮かんだ。歌人の堂園昌彦はこの短歌が収録されている歌集『光と私語』の解説の中で、「豪華客船が港を離れる光景を想像した」と記している。
どちらにしても、ゆったりとした時間の中で見送られるもの、祝祭的な空気と一抹の寂しさを纏うものがイメージされるのだと思う。
自らのもとからゆっくりと離れていくものに、わたしたちは根源的な懐かしさを感じるのではないだろうか。そんなことさえ考えてしまう。
そしてこのうたを読んだ後に、私もまた「人々がみんな帽子や手を振って見送るようなものに乗りたい」と思った。その穏やかで祝祭的で少し寂しい時間を共有したいと思った。
このうたはそんな風に読み手の心を動かしてくる。
さて。ここから少しだけ「うたに書かれていないこと」を考えてみる。
「人々がみんな」なにかを「振って見送る」……この景色を想起するときに、日本人である私にはどうしても、約80年前の戦時下、国旗を振り万歳三唱を持って兵士を送り出した光景が同時に頭に浮かんでしまう。
言うまでもなく、その光景を私はリアルタイムで観てはいない。映像資料や戦後の映画やドラマの中での光景として記憶しているものだ。
でもこれは、決して私の特殊な想像の仕方ではあるまい。
幸いにも、このうたの中で振られるのは、国旗でなく「帽子や手」だ。このうたから穏やかさを強く感じるのは、この振られているのが国旗〈ではない〉ものであるからではないだろうか。
このうたの「みんな」と「帽子や手を」との間に「国旗ではなく」というフレーズを頭の中で挿入しながら読む、というのは、この短歌の読みとして、牽強付会に過ぎるだろうか。
最後にこのうたを読んだ後の気持ちを、少し変奏しながら繰り返すことにする。
私もまた「人々がみんな帽子や手を振って見送るようなものに乗りたい」と思った。そして、そんな穏やかな時間を願える時代がいつまでも続けば良いのに、と私は心から思っている。