一首評:大西民子「分身」より
みえないところ、みなくてもいいところにさえ潜む不安や居心地の悪さを気づかせてしまう短歌。
「石臼」はさすがに私の年齢でももはや身近な器具ではなく、映像や民俗博物館の中で見るようにものであるが、それでもそのつくり概ねわかる。
穀物などを挽くための重い石がずれた状態で重なっている。怪我や破損に繋がりそうなその事態は確かにかなり危うく「不安」なものだ……三句目まで読んで素直にそう思う。
しかし四句目で「よみがえりつつ」と来る。ということは、〈作中主体〉は今目の前にある「石臼」ではなく、過去の、しかも「よみがえりつつ」とあるからおそらくはかなり以前の過去の「石臼」に対して不安を感じていることがわかる。
そして追い討ちをかけるかの様に結句で「遠きふるさと」と来る。ということは、ここで不安に思われている「石臼」とは、時間だけでなく空間的にも遠く離れたところにある「石臼」のことなのだ。
今の実生活とはいささかも関係のない、関係のしようがない「石臼」。なんだったら既にその「石臼」はとっくにずれ落ちて壊れたり、あるいは直されたり、あるいはもはや無くなっているかもしれない。
なんという徒な不安だろうか。
だが、この徒な不安を私は笑えない。そういう、今の自分には、理屈の上では大した影響はないはずなのに、それでも気になり不安を感じ、そして今となっては修正しようのないことを確かに抱えている。
さらには、故郷への思慕とは、そういう微妙な負の感情も合わせてのものである、とも言える。
そういったことをすべてひっくるめて、今の自分があるとも思う……そんなことを、この微妙な不安の感情を描いた短歌は思い出させてくれる。
篠弘は『現代の短歌: 100人の名歌集』のなかで、大西民子の短歌は「あらゆる存在を危うくする不安の要因が無数に潜んでいることを読者に訴えかける」ものと書いている。
この短歌は、まさにそれを感じさせるうただ。