「読売歌壇」でみかけた「おことわり」に思うこと
1.はじめに〜「読売歌壇」でみかけた「おことわり」
10月25日朝刊の「読売歌壇」を読んでいたら、こんな記述が目に入った。
おことわり 10月18日の歌壇「人間は翼ないから走るのだ。山縣亮太九秒九五」は、類似した既発表作があるため入選を取り消します。
(読売新聞10月25日朝刊25面より引用)
新聞歌壇を定期的に読み始めて初めて見かける類のものだ。確かに、スクラップしてあった1週間前の「読売歌壇」をみてみたら、歌人・小池光の選歌の中のひとつだった。
この歌の作者がどういった経緯でこの短歌を自らの手から放ったのかは、わからないからそれはひとまず置いておくとして。この記事をみて思ったことが3つあった。
それは「悪意なく類似歌を生んでしまう可能性への恐れ」と「これはどのようにして判明したのだろうか」そして「その類似既発表作は誰のどんな作品なのか」だ。
2.悪意なく類似歌を生んでしまう可能性への恐れ
問題となっている短歌をもう一度みてみよう。
人間は翼ないから走るのだ。山縣亮太九秒九五
もちろん「自分もこれぐらいの歌は詠める」みたいな話をしたいわけではない。わけではないが、最初に読んで思ったのは「この短歌、自分も作りかねないなあ……」ということだった。
特に下の句。男子陸上100m競技で今日本を代表する選手である、山縣亮太。この名前が七音であることに意識がいかない歌人は少ないだろう。普段、街を歩いていても五音や七音を探してしまうのが、歌人という生き物だ。おそらく。
そして、彼が布勢スプリント2021で出した日本新記録「100m9秒95」。これがまた七音であること。ここに気づいてしまえばこの2つを並べて下の句にしてしまう、というのは、とても自然な発想のように思う。
あとは上の句に何を持ってくるか。ここは歌人としてのセンスを問われるだろうし、わたしもすぐこの「人間は翼ないから走るのだ。」に行き着けるかどうかはわからない。とはいえ、たどり着けないフレーズではない、と正直思う(不遜でしょうか……)。
ここまで考えて怖くなったのだ。奇想と思うものほど凡想である、とは歌人・枡野浩一の意見だったか。自分の詩想で作り上げたと思った短歌が既往の作品の類似歌に偶然なってしまう恐怖。
やはり、投稿前に類似歌が過去に存在してないか、せめてネット上での検索ぐらいはするべきなのだろうか、と思った次第である。
3.これはどのようにして判明したのだろうか
それから、この疑問だ。この記事を読んだ後に、この問題の短歌の作者の名前をTwitter上で検索してみた。私はきっと、この1週間の間で、Twitterの短歌界隈で、この短歌の既往作との類似性が議論されたりしていたのではないか、と推測したのだ。
ところが。Twitterでは特にそんな話は見つからなかった。「山縣亮太 短歌」など考えられるキーワードで検索してもその類のツイートは出てこず。つまり、Twitterでの短歌界隈では特に気づかれていなかった、ということになる。
いったい、この「類似作」という指摘はどこからなされたのか。どこからの同人や結社からの指摘だったのだろうか。読売新聞の担当編集者の方でも掲載後に再チェックなどしているのだろうか。
このあたり、短歌界隈ではどのようなチェック機構が動いているのだろうか。知っておきたい気もする。
4.その類似既発表作は誰のどんな作品なのか
そして何より、これがとても大事なのだが、いったいこの問題の短歌は、誰のどんな作品と類似していたのだろうか。その類似の程度はどれぐらいだったのか。それが書かれていないために、私はそれを知りようがない。
いや、もしかしたら、私が勉強不足なだけで、短歌に詳しい人ならば論じるまでもなく「あれ、これ、あの有名な短歌のマネじゃないの?」と思うものなのだろうか。
あ、でもそうすると、歌人・小池光ほどの人物が気づかないわけはないか。
後学のためにも、ぜひ知りたいところである。
5.おわりに
というわけで、新聞歌壇を読み始めてから、初めて出会った「おことわり」。我が身にも決して起こりえないことではないので、色々と考えさせられた次第である。