音の面影、最後の想い出(1)
祖母が俺のことを「マサルさん」と呼んだのは、ほんの数日間のことだった。
俺は春から大学生になり、埼玉の実家を出て東京の安アパートで一人暮らしを始めた。慣れない家事で水の分量を間違えてドロドロのご飯を炊いてしまったり、目玉焼きを作るつもりがスクランブルエッグになってしまったりしていて、ああ、ばあちゃんの飯がなつかしいな、と思った。家は昔は両親共働きで、ばあちゃんが全部ご飯を作ってくれていた。
『ゴールデンウィークには帰るから』と実家の母に電話をすると、母から、ばあちゃんがもう長くないかも知れない、と話があった。
祖父が先に亡くなり、実家で同居していた母方の祖母、やす子は認知症になってしまい、昨年から老人ホームで暮らしはじめた。しかし、今年に入ってから、食物を飲み込む力が弱くなり、誤嚥性肺炎といって、間違って痰が肺の方に入ってしまい、肺炎になってしまうようになってしまった。そして最近になって食物がまったく食べられなくなってしまったらしいのだ。
『もう、いつ亡くなってもおかしくないって。』と母は言った。ばあちゃんは母の母なのだから、母はどれだけつらいのだろう、と電話の声を聞いて思った。
四月の終わり、ゴールデンウィークになり、実家に帰ると、その足で祖母の入居している老人ホームへ母と向かった。
「お母さん、一馬が帰ってきたわよ。わかる? 一馬よ?」
祖母は、俺の顔をじーっと見ていたが、こう言った。
「マサルさん?」
へ?
「マサルさん、帰ってきてくれたんですね。私、私、ずっと待っていましたよ。」
そう言うと祖母は少女のようににこにこ笑った。
俺と母は顔を見合わせた。コソコソ声で母に、
「…誰? マサルさんて?」ときくと
「…知らないわよ。誰かしらね…まあ、いいじゃない、こんなに嬉しそうなお母さん久しぶりに見たし、今日から、あんたはマサルさんよ。」
「はあ!? 勝手に決めんなよ。」
祖母は、
「マサルさん、私、マサルさんが教えてくれたピアノ、上達したんですよ。」
と、マサルさん(俺)に話し続けたのであった。
(つづく)