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10クラ 第37回 詩人、幸福の刹那に

10分間のインターネット・ラジオ・クラシック【10クラ】
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第37回 詩人、幸福の刹那に

2022年7月8日配信

収録曲
♫フレデリック・ショパン:ポロネーズ 第6番 変イ長調 作品53「英雄」

オープニング…サティ:ジュ・トゥ・ヴ
エンディング…ラヴェル:『ソナチネ』より 第2楽章「メヌエット」

演奏&MC:深貝理紗子(ピアニスト)


プログラムノート

ほとんどの人がその名を知り、その音楽を耳にしている。しかしなぜこの作品が「英雄」と呼ばれるようになったのか、未だに誰も知ることができない。
数多くのピアノ曲を書き、病に悩まされながら早くにこの世を去った。時に(そして一般的に認知されかけている)その音楽は「甘美」と言われ、「優しい」と言われ、「ロマンチックな」と言われる。
少なくとも私は、その音楽から「優しさ」を抽出できたことがない。そこには果てしない孤独と閉ざされた胸の内、壊れやすい感受性が溢れている。もしそれを「優しさ」と言うのであれば合点がいくが、柔和な何ものかを意味するのであれば、私は少々違うように受け留めている。

「ピアノの詩人」フレデリック・ショパン、
ピアノ作品への称賛とは対照的に、そのオーケストレーションのついては非常に辛口な評価が下される。「脆弱な」だとか「存在感のない」だとか、ひどいものだと「全く意味を成していない」などと散々な言われぶりである。しかしこれもまた、「多数決的意見」にあやかっている人々ー或いはそのように刷り込まれて育った、もっと言えばそう言っておけば「わかる」部類に入ったことになるという選択肢ーでの話である。この世のものとは思えないほどに美しいピアノコンチェルト第2番の第2楽章を聴いて頂きたい。あのファゴットに心打たれない人が、ショパンの作品群の心奥へ浸り行けるとは思えない。
ショパンは歌が大好きだった。そのメロディの抑揚はオペラ作曲家の大スター、ベッリーニに由来する。ショパンはピアノ以外の楽器を「扱えなかった」のではない。自分の言葉を乗せる手段として最も適してきたのがピアノだった。それだけのことである。

「英雄」を描いたショパンは32歳ほどの時期だった。バラード第4番やノクターン第13番など、ドラマティックかつ芸術性の高い作品群が生み出されたこの時期は、孤高の人間ショパンの束の間の「幸福期」であった。
幼少から体は弱かったが、ポーランドでは快活な少年だったという。紛争や革命、時代に翻弄されながら家族と離れたのが20歳前、それ以降母国の土を踏むことができなかった。
一時的な「足掛け」の土地であったパリでは、煌めく才能との交流を楽しむ一方、「スターを育てるというステイタス」に燃えるサロニエールたちによって邪魔も入れば根も葉もない噂も飛び交い、仲間との関係もギクシャクしてしまう。音楽家の形態がまだまだサロニエールというパトロンがいなくては成り立たなかった頃、ショパンやフランツ・リストを始めとした音楽家たちはパトロンのご機嫌を取らざるを得なかった。そのような独特な環境は、次第にショパンの心を閉ざしていった。

26歳前後には、体が弱いことを理由に(音楽家、という職業への理解も乏しかったという説もある)婚約破棄を経験する。幸せ絶頂からの絶望である。その時期著しく体調を崩していたショパンは秀でた文学者ジョルジュ・サンドと出会う。サンドとの恋仲は有名だが、サンドのこの言葉はいかがだろう。
「男は皆、女性の胸のなかで楽しむ。女性はただただ孤独を耐えるだけ」
自身の創作活動と前夫との子供の母として奮闘する傍ら、ショパンという稀有な才能へ甲斐甲斐しく尽くしてきた彼女に対し、この「英雄」の時期以降再び体調を崩したショパンはきつく当たるようになる。
その後進行する病と、サンドとの別離によって、ショパンはますます孤独を歩んでいく。

苦難多きショパンが、奇跡的に体調的にも精神的にも幸せだった時期に描かれた「英雄」ーその幸福の刹那は、その後多くの人々を魅了し続ける「宝物」を生み出した。

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musiquartierーピアニスト深貝理紗子のミュジカルティエ
クラシック音楽を届け、伝え続けていくことが夢です。これまで頂いたものは人道支援寄付金(ADRA、UNICEF、日本赤十字社)に充てさせて頂きました。今後とも宜しくお願いします。 深貝理紗子 https://risakofukagai-official.jimdofree.com/