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【10クラ】第33回 追憶と実験

10分間のインターネット・ラジオ・クラシック【10クラ】
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第33回 追憶と実験

2022年5月13日配信

収録曲
♫武満徹:『ピアノのためのリタニ〜マイケル・ヴァイナーの追憶に〜』より第1曲アダージョ
♫エリック・サティ:ジムノペディ第3番

オープニング…サティ:ジュ・トゥ・ヴ
エンディング…ラヴェル:『ソナチネ』より 第2楽章「メヌエット」

演奏&MC:深貝理紗子(ピアニスト)


プログラムノート

「国家としての音楽ではなく、ヒューマニズムに立った音楽」を追い求めた芸術家グループがあった。
その言葉はさりげない対談のなかで出てきたものかもしれないが、私にとっては、背筋の伸びる、そして光の差すような一言だった。

時は第二次世界大戦。
全ては国家のために。民衆は国のために。
そのような時代に水を差した芸術家がいたからこそ、私たちはいま、人間としての立場から冷ややかな眼を持つことができる。
弱い一粒の存在でしかない人間が放置してはいけないことは、「国家を司る主」と勘違いした憐れな権力者を生み出さないことである。

そのグループは『実験工房』といった。
シュールレアリスムの詩人、瀧口修造のもとに集まった芸術家のなかに、武満徹も名を連ねた。
まだ日本が、世界大戦の影響下からドイツ音楽やソ連の音楽しか受け付けなかったような頃に、シェーンベルクやメシアンの音楽を研究し発信した。
彼らは言った。
「国家主義の立場から言えば巨匠はプロコフィエフかもしれない。だけども、そんなものと全く関係なく音楽を人間の営みに引き戻そうとした巨匠がメシアンだと言えるんじゃないか」。
クラシックにおけるフランス音楽と日本音楽が、煽動的なものと一線を引いている所以がここにあるように思う。

人はいつも、巧みな話術に煽動される。
華々しいプロモーションに躍らされ、理性を失った意味での熱狂に呑まれていく。
未だに、フランス音楽や日本の現代音楽には「淡さ」だとか「ふわっとした」「掴みどころのない」といった言葉が付いてくるが、ピンと張り詰めた空気感とスパイスには、鋭さと一種の「闘い」が滲み出る。
オーケストラに和楽器を用いた武満の「ノヴェンバー・ステップス」を「水墨画のようだ」と評した指揮者がいたが、すぐさま否定されたという。「これは日本人が西洋の文化に堂々と切り込んでいく闘いなのだ」と。

リタニ。
連祷を意味している。
同じ題名でパイプオルガンから苦悩の音響を生み出したフランスのジャン・アランは、ナチスの銃弾に命を落とした。
武満のリタニは、もともと「ふたつのレント」として発表されたデビュー曲とも言える(レントから、語呂をかけて連祷となっているとも言われる)。
リタニはその改作で、新進気鋭の若手作曲家の発掘を精力的に行っていたマイケル・ヴァイナーへの副題が付いている。
ヴァイナーは、楽譜出版ショット・ミュージックの社員であり、ロンドンのシンフォニエッタの音楽監督も務めていた。
下地となっている「ふたつのレント」は実験工房で活動を始める前年に書かれている。
5音音階に興味を持っていた時期から、メシアンのプレリュード集と「衝撃的な出会い」をした過渡期にあたり、現代音楽界に大きな爪痕を残す意欲作となった。
今回はその第1曲目のアダージョを取り上げる。
冴え冴えとした音響、研ぎ澄まされた色彩、ドビュッシーとメシアンを繋ぐようなペンタトニックの片鱗の溶け込んだ、非常に芸術性の高い作品である。

続くサティは広く親しまれる「ジムノペディ」から、演奏頻度のさほど高くない第3番を。
「ジムノペディ」はギリシャ神話の芸術や酒の神、アポロンやデュオニソスの祭典「ギュムノパイディア」にインスピレーションを得て、儀式的な舞曲となっている。
サティの前衛的な「破壊」が、「破壊するという概念さえも破壊している」ということは、私のこれまでのコラムやテクストを見てくれている方ならわかってくれると思う。

大袈裟な主張も、攻撃的な批判も好まない。
人間という小さく「許しを乞い続けなくてはいけない」存在に立ち返った時、私たちは何に感謝し何を口にするべきか。

ヒューマニズムから発する音楽―これが私がいま、やりたいことだと確信する。

クラシック音楽を届け、伝え続けていくことが夢です。これまで頂いたものは人道支援寄付金(ADRA、UNICEF、日本赤十字社)に充てさせて頂きました。今後とも宜しくお願いします。 深貝理紗子 https://risakofukagai-official.jimdofree.com/