第29回　彼岸の先に

2022年2月25日配信

収録曲
♫フランツ・シューベルト：即興曲 作品90 第3番 変ト長調

オープニング…サティ：ジュ・トゥ・ヴ
エンディング…ラヴェル：『ソナチネ』より 第2楽章「メヌエット」

演奏＆MC：深貝理紗子（ピアニスト）


プログラムノート

　ここにいれば、誰にも邪魔されることなく閉じこもることができる―そんな感覚を覚えたのはシューベルトの21番ソナタを聴いた時だった。あまりに暗すぎるひんやりとした場所を彷徨うような第2楽章の、涙が出るほど温かい長調への転調。すべての重み、辛いこと、我慢してきたこと、苦しいこと、全部を一瞬にして肯定してもらえたような、不思議な体験だった。以来私にとってシューベルトの音楽は「音楽のなか」だけでなく、生活にとって無くてはならないものになっていった。
　シューベルトの人生はたったの31年だ。そのなかで信じられないほど多くの作品を残し、歌曲、室内楽、器楽曲、交響曲、どれも現代に至るまで愛され続けている。人によっては、この人の音楽を苦手だと言う。私にとって無くてはならない存在を、苦手だという人の気持ちも何となくわかるのは、それまた不思議な思いがする。でも、わかる。なぜならシューベルトの音楽は限りなく「死」に近く、限りなく「死」に憧れを持った、危険なアイテムだからだ。私が意識的に距離を取る必要があるのは、このためである。あまりに入り込みすぎると危ないので、ぜひ皆さまにもそこのところは気を付けていてほしい。
　今回の即興曲作品90はシューベルトの死の前年に書かれた作品群のひとつである。つまり30歳のときの音楽ということになる。一方で諦めを持ち、一方で疲れ果て、一方で葛藤を重ね、一方ではどこまでも瑞々しい。人生の「味わい」が滲み出ているような色彩に、もっと近づいてみたいと思い続ける。
　シューベルトの6度は言葉を失うほど美しい。この美しさは音色が美しければ美しいほど引き立つものでもある。転調の妙は旅路を思わせ、低音部の意味深なトリルは異世界へと誘い込む。決して自ら越えてはいけない川、彼岸の先の到達点を見据えた音楽である。
　交響曲でも顕著だが、ベートーヴェンの低音は生きろ生きろと説いてくる。シューベルトに偏りすぎた際は、早いうちにベートーヴェンに逃げ込むように。