ドビュッシーに寄せて―パンとシランクス
「あなたの声と共にいることができてよかった」
パン(牧神)のこの言葉に何を感じるかは、人によっても、その時々の気分によっても違うだろう。
淋しさ、哀しみ、愛、官能、慰め、切なさ、欲望…
しかし何時も一番に勝って感じるのは、狂気ではないだろうか—
8月22日のドビュッシーの誕生日に向けて、少し掘り下げたテーマでドビュッシー・ワールドを描いてみたい。
ドビュッシーはさまざまな神話を題材にし、美しき芸術を遺していった。
そのなかでも特に多く取り上げられ、ドビュッシーの音楽に大きな影、あるいは光を与え続けている「パン」に迫る。
パンはヘルメスと精霊ドリオピの子と言われている。
生まれてきた子が山羊の脚と角、尻尾を持っているのを恐れたドリオピは、パンを置いて逃げた。ヘルメスは神々のもとへ連れて行った。
パンは神々に歓迎され、酒の神デュオニソスに可愛がられた。すべての神々に喜びをもたらしたことから、ギリシャ語の「すべて」を意味する「パン」との名が付いたという一説がある。
パンのトレードマークはパンパイプ、「シランクス」と呼ばれる笛である。
ちなみにパリの楽譜屋のひとつ Flute du Pan は、この姿を描いている。
4年間住んだ家から歩いて20分ほどのローム通りに立つ楽譜店。
マークは公式ホームページより引用。
シランクス。
ギリシャ語で「シュリンクス」と記されるこの女性は、ギリシャ神話のアルテミスに仕える、身も心も美しい樹木の精霊(ニンフ)だった。
パンは好色の神、つまり、大の女性好きだった。
半獣であることから恐れられること、避けられること、拒まれることもあった。
パンは美しいシランクスに一目惚れをし、逃げる彼女をラドン川の川辺まで追い詰めた。
シランクスはパンの姿に対して逃げたこともあったと思うが、なによりも主人であるアルテミスを心から崇拝していたため、生涯を処女として貫きたいとずっと心に決めていた。
逃げ場を失くしたシランクスは、ラドン川にいる水のニンフに助けを求め、パンに触れられるギリギリのところで葦となった。
パンは突然にして目の前から消えたシランクスを想い、悲しみに暮れる。
そこに吹いた風が葦を通り抜けた時。
葦は世にも美しく、そして哀しい旋律を奏でた。
冒頭のパンの言葉は、この時のものである。
自分から逃げ、命を投げ出し葦となったシランクスの声に対しての言葉である。
パンはその声とシランクスを想い、葦を切り取り笛を作り、自らのトレードマークとして肌身離さず持っていた。
これが最もメジャーなパンとシランクスの物語である。
さて、私はここに狂気を感じ、パンのエゴに嫌悪さえ覚えてしまう。
パンは自らの想いには「純」であったが、それはシランクスに対する支配であり、自己の押し付けであり、粗野な振る舞いである。
それは「愛」とは言わない。
シランクスに対して本当に「愛」を持っていたのであれば、彼女の想いと希望を尊重するべきであった。相手の大切なものを、自分の都合と勝手で奪い、踏みにじることは決して「愛」ではない。
さらに、パンはそこまでして自分から逃れたがったシランクスを、葦となっても手放さない。とんでもない執着ではないか。
そしてそれ以上に恐ろしいことは、人が誰しも、パンのような心を多かれ少なかれ潜めていることである。
だからこそ惹かれ、受け継がれていく話なのだ。
旧約聖書の中に、パンとは正反対の男の話がある。
容姿端麗、武術にも長け、豊富な知識と裁量を持ち、家の主にすべてを任されるほどに信頼の厚かった男がいた。
主人の妻は、この男をどうにかして口説こうとしつこく試みる。
少しも揺るがない男にしびれを切らし、主人の留守中に夫人は強引にも男を捕まえる。衣服を掴まれた男はそれらを脱ぎ捨て、急いで逃げ出す。
プライドが許さない夫人は、帰ってきた主人に対し、男が無理矢理に迫ってきたと虚言を並び立てる。
そこまで追い詰められても、男は主人に従順に使えることのみを遂行し、言い訳どころか夫人の行いを責めることさえしなかった。
こんなにも完璧な人間がいるだろうか。
私たちはもっと弱く醜いものだからこそ、パンの持つ狂気に、一種の官能と「美」となり得る要素を見出してしまうのではないだろうか。
そのようなシランクスを題材としているのがドビュッシーのフルート独奏曲《シランクス》。
パンとシランクスに関しては、ことさらこだわり抜いて描いているように感じる。
ドビュッシーは「パン」によって、自らの人生にも、フランス音楽の生命にも、無二の美しさを添えていった。