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【10クラ】第12回 怒ってるけど

10分間のインターネット・ラジオ・クラシック【10クラ】
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第12回 怒ってるけど

2021年5月28日配信

収録曲
♫ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン:ピアノソナタ第23番 ヘ短調 作品57 《熱情》より 第3楽章

オープニング…サティ:ジュ・トゥ・ヴ
エンディング…ラヴェル:『ソナチネ』より 第2楽章「メヌエット」

演奏&MC :深貝 理紗子(ピアニスト)


プログラムノート

怒りというのは、世の中にふたつあるように思う。

ひとつは「癇癪」。ただ好まないことがあり、周りのことなど関係なく苛立ちジタバタする。何も幼児だけの話ではない。大きな幼児は溢れるほどいる。だからいつまでたっても他者を傷つける人間が途絶えない。

もうひとつは「コントロールされた怒り」である。このふたつの違いは歴然である。愛があるか否か、ただそれだけだ。いわゆる「弱者」に対する理不尽を目にした時、クロだとわかるのに足がつかない「権力者」の愚行を感じる時、本当に守られてほしいものが守られず、悲劇が繰り返される時、人はこの愛ある「コントロールされた怒り」を抱く。

ベートーヴェンの音楽はまさに後者だ。
人間愛を提唱し続けたベートーヴェンの音楽は時代を越えても色褪せることが無く、いまなお新鮮な輝きと包容力をもって私たちを励ましてくれる。

さて、矛盾しているようで申し訳ないが、ベートーヴェンは普段、相当な「癇癪」持ちであった。ベートーヴェンの音楽の爆発力をみれば、想像に難くないとも思ってしまう。

ベートーヴェンはピアニストとしてこれから、というような脂ののった時期から耳の病に侵されるようになる。耳鳴り、聴力の衰え―考えるだけで恐ろしい。
いまでこそ美談となるが、聴力を失ったからこそ書けた精神世界だとか、型破りな和声構成だとか、私にはとてもそんなふうに割り切った考え方はできない。

また、ベートーヴェンは生涯独身だったが幾度も恋を失った。
とくに結婚まで思い描いた貴族の女性は、身分の差も立ちはだかり、すぐに「釣り合う」男性と結婚した。
ベートーヴェンの時代では仕方のないことだったと思うが、現代においてまで出てくる「釣り合い」、私はこの言葉が大嫌いだ。人間の間に釣り合いなどという言葉を持ち出す人にロクな人はいない。
やや過激になったが、とりあえずベートーヴェンがこの大失恋に相当なダメージを受けたのは確かである。
病、失恋、前途を見失いかけたベートーヴェンは遺書をしたためる。

しかしそのような中で、フランスの新しい技術を持ったエラール社のピアノがベートーヴェンに贈られた。
常に楽器の進化に合わせて挑戦し続けたベートーヴェンのピアノソナタは、「ベートーヴェンのピアノソナタを追えば楽器の発展がわかる」と言い換えても何ら大袈裟ではない。

我に返ったベートーヴェンはここでまたひとつの転機を迎え、新たな楽器で広がった鍵盤幅、ダンパーによって可能になった音量幅を駆使し、生きる苦しみも怒りも、同時に生きる希望も命を授かった「愛」も、ありったけに込めた作品を書き上げた。
それが、現代に至るまでピアノソナタの最高峰と名高い《熱情ソナタ》である。

第1楽章の不気味な静けさと爆発は、知的な文学作品を彷彿とさせ、「怒って」いるのに怖いほどコントロールされている。途中の長調への温かい転調など、ベートーヴェンは「その先の世界」を覗いてきたのだろうかと思わせるほど遥かなる響きを帯びている。

涙が出るほどに慈愛に満ちた第2楽章の美しい歩み。高みに近づくように変奏されていく模様は美の骨頂。もはやシューベルトの歌曲を誘ってくるようだ。

そして今回演奏した第3楽章。怒涛のコーダへ流れ込むまで、常に「怒って」いるものの、生きる方向へのエネルギーと緻密な設計図は気味の悪いほどコントロールされている。理性を外すところまでも、コントロールされているのだ。

ベートーヴェンの精神力と意欲、覚悟の満ち満ちた作品である。

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musiquartierーピアニスト深貝理紗子のミュジカルティエ
クラシック音楽を届け、伝え続けていくことが夢です。これまで頂いたものは人道支援寄付金(ADRA、UNICEF、日本赤十字社)に充てさせて頂きました。今後とも宜しくお願いします。 深貝理紗子 https://risakofukagai-official.jimdofree.com/