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鑑賞の手帖:歌の断片/2024.12.22.渋谷美竹サロン主催公演 123シリーズvol.166 吉田友昭さん(ピアノ)

2024年12月22日(日)18時開演(17時半開場)
渋谷美竹サロン主催公演 123シリーズ vol.166
吉田友昭さん(ピアノ)
「ロマン派の巨匠たちによる最期の煌めき」

【プログラム】
ショパン:3つのマズルカ Op.59
     舟唄 嬰ヘ長調 Op.60
     ポロネーズ第7番 「幻想」 変イ長調 Op.61
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 Op.111
シューベルト:3つのピアノ曲 D.946
シューマン:3つの幻想小曲集 Op.111
      「精霊の主題による変奏曲」 変ホ長調


計らい

 朴訥な趣に富んだ音色が、さまざまな表情で生き、歌っている。それは磨かれているし、洗練されてもいるのだけれど、なにやら不思議なことに、飾らぬ作曲家の感性を浮き彫りにするようだった。語弊があったら申し訳ないけれども、裸の感性、とでも言うような。
 当然、相当な力量をお持ちのピアニストである吉田友昭さんについて、その演奏を言葉にするのは愚であることをわきまえながらも、作品の生きる瞬間の出会いを少しばかり、綴ってみようと思う。年の瀬に、温かな時間を与えてくださった美竹サロンの皆さまへの感謝も込めて。
 演奏された曲目のどの作曲家が良かった、というよりも、どの作曲家のなかでも現れた印象を、記録しておきたい気がする。それはあるときにふと、こぼれ出る歌の断片。とても素朴に浮き立ってくる瞬間が何度もあった。これを拾わないと、放り出された歌は哀しみのあまり消えてしまうかもしれないーなどと、おかしなことを思った。放り出された歌は、そんなことを待ってもいないし、媚びてもいないことまでも、よくわかるのに。
 会場に入ると、既に吉田さんがいらっしゃって、プレ演奏をしていた。順に座席についてゆくお客さまも、モーツァルトの「トルコ行進曲」付きソナター第11番K.331がころころと優しく舞うのを、静かに見守っている。この親密で穏やかな空気感に「シューベルティアーデもこのような感じだったのかしら」と思い出した。
 サロンのサロンらしさに、理念と精神を注ぎ続ける主催と奏者ならではの、粋な計らいに迎え入れられたソワレの始まり。

歌の放任 ―ショパン

 ひとつの作品であるように、間髪入れずに演奏されたショパンのマズルカ、舟歌、幻想ポロネーズ。一連の流れを創りたい奏者が、聴き手の拍手を入れないように演奏することはしばしばあるが、ここまで曲間がないのは初めて聴いた。作品を知らない人が聴いたら、どこまでがどの曲だったかわからなかったかもしれない。調性の移ろいにも配慮されたと思われる曲順が、その説得力を支えていた。
 幾種類もの弱音の歌い回しと、ここぞという旋律にペダルを外す勇気が、美しかった。塩梅はとても難しいが、ショパンのピアニッシモは絶妙なペダリングでより儚さを増すし、あえてペダルを外したときのレガートが美しいほど、壊れそうな感受性が、聴き手の心に迫る。おそらくこのレガートの達人はルビンシュタインとフランソワだったと思う。作曲時の楽器が可能だったペダルは、いまほどウェットではない。ショパンの記したペダリングが残したかった音響を探るだけでも、ペダルを何層にも扱うコントロールを磨かなくてはいけない。
 全く違うかもしれないけれど、弱音の打鍵のコントロールを聴いているうちに、吉田さんはプレ演奏のモーツァルトで、ひとり、またひとりと増える聴き手とともに変わりゆく空間の音響を、計算していたのではないかしら、などと思い始めた。管弦楽器奏者は、演奏前のチューニングのAを出す一瞬で、ゲネプロ時とは変わった音響をキャッチする。奏者の美学上、お客さまの目に触れるところでチューニングをすることを拒む奏者もいるが、彼らには選択肢がある。歌い手とピアノ弾きには、それがない。まあ、やろうと思えばできないこともないが、単なる変人か、ふざけた人と思われるのではないかなぁ。
 あらゆるところから歌が浮かび上がるような音色のバランス作りに、アルフレッド・コルトーを思い出した。「詩的に香るようなピアノ」と言われても、ミケランジェリのような高貴さなのか、フランソワのようなお洒落さなのか、はたまたリパッティのようなナイーヴさなのか、具体的なところを示せない。でも、このような歌を放り出す感じがー緻密に扱われてはいるのだけれど、生まれてきた音が、奏者の手から離れた生き物として存在するような意味でのーコルトーの放任に似ている。
 フォルテに向かう切実さには、柔ではないロマンティシズムがあった。聴き手を乗せて「一緒に盛り上がっていこう」という華やかな広がりではなく、急激なギアチェンジによって一瞬聴き手を置いてゆく疾風もまた、コルトーの弾く後期のショパンに近い。音の多さと、時間の扱い方のわずかな加減によって、印象は大きく変わる。タイトな時間軸を貫けば、音自体の呼吸数は減り、時間とのせめぎ合いのような緊迫が生じる。さまざまに呼吸する弱音に比べ、厳しい強打とテンポ感が、本公演の主題である“最期”の方向性を形作ったように思う。

渇き ―ベートーヴェン

 ベートーヴェンのOp.111は、これまでも多くの奏者が弾いてきた傑作である。変奏形式も音の細分化もバロックのうえに立ちながら、謎めく最後の弦楽四重奏群と並び、どの時代でも前衛を生きるのだろうと思う。科学の進歩と、人間の進化は違う。科学的に根拠を得る古人の知恵が、増えるだけである。そうすると、人はもしかしたら、知恵の後退を辿っている。ベートーヴェンの前衛は、後に多くの作曲家を―文学者をも―囚われの身にしたように、失ったことのない者が決して得ることのない知恵と不思議を、生きている。この作品に対し、“彼岸”を使う人もいる。けれども、シューベルトの疲れた6度や、マーラーの内省が引き延ばす長い音のほうが、彼岸と見える。おそらくベートーヴェンは、聴力とともに死んでいる。死を得て生きた者は、物質的な死を迎えようと、いまさら彼岸など渡らない。
 前置きが長くなってしまったが、第2楽章の印象的な第3変奏の表現が、今回ほど彷徨える印象をもったのは初めてだった。ここをジャズのようだと言う人も少なくない。それが、今回の演奏からは全く、ジャズを思い浮かべない。リズムも音色もテンポも、もちろん整っている。それなのに、なにか知らない世界を彷徨うような感覚があった。感情を抑制した主題のシンプルな聴かせ方、続く第1、第2変奏の弱音の神秘性の持続が、所以かもしれない。感銘を受けて心が潤うとか、熱くなるとか、涙もろくなるとか、そのような湿っぽいものは時折経験するものだけれども、渇く、ということもあるのだと知った。ピアニッシモのなかに、幾重ものピアニッシモがある。その静かな集中の熱に干上がったような、渇きの感動というものも、新しい。

無防備 ―シューベルト

 どこまでも優しいシューベルトは、第2曲目の甘美な旋律が、ほろりと素朴に歌われたことが、とにかく良かった。歌い込まず、同情を誘わず、媚を売らず、突如ひとりになる瞬間をもつ、あの特有の孤独が、シューベルトという慰めである。《魔王》も《さすらい人幻想曲》ももちろんシューベルトなのだけれど、《冬の旅》や《白鳥の歌》が等身大のシューベルトのように思う。フレーズはたしかに、長いほうが良い。それでも、時には独り言のようにこぼれる句があるのも素敵だ。今回の公演では、とくにその、こぼれ出た句―長き歌のなかから、無防備にはみ出てしまった歌の断片が、魅力的だった。
 第1曲のタランテラは、ピアノソナタ第19番や弦楽四重奏曲第14番(通称《死と乙女》)の終楽章のような、不気味なアプローチもあると思う。けれども、前半のショパンとベートーヴェンのあとには、このような清々しいアプローチもまた心地良かった。第3曲は、ピアノソナタ第21番の終楽章のシンコペーションやアーテュキレーションに通じてゆくのだろう。そうすると、ここでのフォルテは《さすらい人幻想曲》のそれではなくて、力強さというわけでもないと思う。明瞭なタッチをさりげなく土台にしながら、どこかにいつも、耳を澄ませばリートが被さるような音の呼吸と、優しい歩みのあるシューベルトだった。

忘れものをもって ―シューマン

 人間らしい混沌と矛盾をはらむ作曲家シューマンの、悲しい時期に紡がれた変奏曲WoO24(日本名《精霊の主題による変奏曲》)をこのプログラムの最後に“最期”として演奏するのは、精神的にもとても重たかっただろうと思う。最後の変奏は、シューマンを助けた人がいたからこそ、世に残った。独白のように辛いこの作品に、ぽとぽとと落とす音の雫は、ひと言ひと言をだれに聴かれるわけでもなく、ありのまま呟くように向かわれた吉田さんの、ひとつのピアニズムだと感じた。
 しばしば、この作品はシューマンのヴァイオリンコンチェルトの第2楽章の旋律との関連を指摘されている。錯乱のなかで「天使が歌っていた」と、シューマンは語ったそうだ。この主題はさらにもうひとつ、意味をもっているのではないかと思う。冒頭のフレーズ、その断片G-F-Esは、ベートーヴェンの告別ソナタ(第26番)のle-be-wohl(独:Lebe wohl/さようなら)に与えられた音でもある。精神的な闘いのうちに、だんだんとなにか、昔の親しいものや愛したものが、シューマンの心の安寧を迎えに来たのかもしれない。
 だからこの作品は、流暢なレガートでは取りこぼしてしまうものがある、と思う。人生のうちに、どこかへ置いてきた忘れものが心によみがえる瞬間というのがある。吉田さんは、弱音の絞り出す、心に残された歌が訥々と拾われてゆく時間を、少し歩き疲れた旅路のようにつぶさに描いた。
 シューマンのこの時期は、人間的にとても重く、とても悲しい。人は自分のことを考え続ければ、原罪という苦悩に行き着く。存在することによって、だれかを傷つけるかもしれない恐怖も抱く。でも、目の当たりにしなくては案外気がつかないかもしれないけれども、人には、大切なものが、自らを消してゆくさまを見る壮絶な悲しみというのもまた、ある。だから、ただ生きているだけで、人を生かしていることがあるということも忘れてはいけない。生きることが、本人の忘れているかもしれない場所で愛し続けている存在を、照らすことさえあるのだから。

断片は

 クリスマスの時期に似合う、“人間”を問うようなプログラムのアンコールは、モーツァルトのアヴェ・ヴェルム・コルプスだった。救いのように、清く響いた。
 芸術文化は、社会の病める隙間から、光を見出そうとした人間の創造である。今年は自然災害も大きくなり、心痛む事件も多く、戦争の文字も近づいた。命の使われ方が、今一度問われる現在を生きている。作品として残った古人からの心は、感受性を想像以上に震わせる。作品を生きることは、人間を生きることである。人の悲しみや苦悩は、幸せよりも多様で複雑だと言われてきた。比較することも推しはかることもできないその重さを抱えて初めて、目前に現れる文化の扉というのもある。
 こぼれ出た歌の断片が、どこへ向かったのかはわからない。素朴なのに印象に残ったそれは、たしかに、生きた。




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musiquartierーピアニスト深貝理紗子のミュジカルティエ
クラシック音楽を届け、伝え続けていくことが夢です。これまで頂いたものは人道支援寄付金(ADRA、UNICEF、日本赤十字社)に充てさせて頂きました。今後とも宜しくお願いします。 深貝理紗子 https://risakofukagai-official.jimdofree.com/