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音楽が凶暴になるとき

音楽と凶暴性


 凶暴さとはなにか。普段生活するなかで危険視されるそれを、私は時に、音楽に見出している。それはことあるごとに取り上げられ、熱を取り戻すためにあるように思えてならない。ここにある凶暴性は、人間的な営みのために発せられる主張である。決して無害の人間を傷つけるようなものではなく、人権を、自由を、倫理的な生を勝ち取り続ける信念である。そのような音楽は、なんとなく生活に追われているうちに置き忘れがちになる「思考」を育むことを思い出させてもくれるし、自己中心的-本当に気を付けていないと人間は「常に自己中心的」であることを忘れてしまう-な自己という存在に対する自惚れをも思い出させ、警告を与えてくれる。
 私に身近なところで言えば、メシアンにプロコフィエフ、ストラヴィンスキーにベートーヴェンが挙げられるが、ショスタコーヴィチやシマノフスキ、シベリウスなどもそうだろう。若くしてナチスの銃弾に散ったジャン・アランもまた、生きていたらどれほどの「凶暴性」を残してくれただろうか。彼の書いたオルガン曲『リタニ』は、妹の不慮の事故を機に当初の予定を全く覆し、痛々しい追悼と、置き所のない怒りや苦悩に満ち、祈りを導き出している。静かな祈りもあると思うが、そこに至るまでには心の奥底の嘆きも葛藤も溢れんばかりにある。メシアンやベートーヴェンに普遍的な説得力があるのは、彼らの表現が「万物の創造主」の存在のもとで最小も最大も存分に描き出している点が挙げられる。そしてそれは必然的に、大バッハの音楽へと通じていく。
 

文明社会における唯一の反抗


 人間が人間に対して凶暴であることは極めて恐ろしい。誰しもがほんの少しでも持つべき恐怖心は、自身の発する「言葉」である。言葉を持つ人間は、それを習得するほど「愛」も持ち得るかもしれないが、同時に「凶器」を内蔵することになる。言葉を持ってもなお、体が先に動く人間もいる。言うまでもないが、その凶暴さは人間のみならず動物や植物、モノに対しても向けられるべきではない。文化における凶暴性は、そのような「理不尽な凶暴さ」に対抗するものである。それは文明社会に生きる人々が唯一発することのできる凶暴性である。
 「暴力的に」と記された部分に大地の轟を描いたのはメシアンである。権力と理不尽の横行する時代を経て、彼はより一層「自然」の力を描いた。ピアノ曲で言えば『幼子イエスに注ぐ20のまなざし』や『4つのリズムエチュード』がその最たる例である。朽ち果てることのない圧倒的な存在と美(=神)のもとで力強く地を踏みしめるダンス(民族的かつ原始的なリズムパターン)のコントラストは非常に鮮やかで、光さえも見える。
 このパターンはベートーヴェンにも見られる。作曲者自身が「ダンス」と言ったといわれるピアノコンチェルト第5番の第3楽章は、神々しい存在と人類のダンスのコントラスト。太古からダンスは祈りであり生命の息吹であることも思い返せば、これらは「自然界に生きる」全ての人々へのエールであるとも言えるのではないだろうか。全て-そのなかには理不尽を振りかざす者も入っていることがまた、この2人の「巨大」な部分だ。見習いたくても到底追いつくことのできないほどの精神性の高さは光を纏い、私たちに感動を与え続けてくれている。
 メシアンとベートーヴェンはその先に明るい天上があるが、ソ連が関わってくる作品はこの2人の様子とは変わってくる。非常に生々しく痛々しく、暗さが増して-タイムリー過ぎるので書きたくもなくなってしまう。内部にいたプロコフィエフやショスタコーヴィチ、対してちょうど今のような状況で日常を侵されたシマノフスキ。以前まで盛んに演奏していたこの人たちの音楽から、私はどこか遠ざかってしまった。その重さに、自分が耐えられる気がまだまだしていない。どこか疑心暗鬼になってしまった部分も正直ある。そしてシマノフスキの人生を思うと、どうにも辛くなってしまう。ただひとつ揺るぎなく言えることは、彼らなりの精いっぱいの、そして本当にギリギリの覚悟に満ちた「凶暴性」を大いに訴えた、素晴らしい作品群である、ということである。

「凶暴性」の根源は


 文化において「凶暴性」が現れるとき、必ず社会に何かが起きてきた-ということはプログラムノート等も含めて再三述べていることではあるが、そこには大きな権力に対抗する文化人たちが、常に命の危機と対峙しているという覚悟があったことも思い出したいものである。自身の保身ではなく、人間が人間的に生きられるように「発信すること」を止めなかった人々の、並々ならぬ熱-その産物を私たちは享受している。それはとてつもなく身震いするほど、素晴らしいことではないだろうか。
 発信は、ただ単に権利の主張ではない。現代社会で自己の権利を他者に強要することは、他者の権利をまるで無視する危険性も孕んでいる。人それぞれ主観が違えば難しいことでもある。ただし権利は吞み込むものでもなければ、振りかざして横行させるものでもない。人間個人の軸は、強く持っていても段々と無意識に偏っていくものであると思う。それを矯正させるものが、他者とのコミュニケーションであり、歴史を学ぶことであり、先人の残していった文化に真剣に向き合うことである。そしてそこにある熱を、自身の体感として吸収できるほどに作品の真髄に迫る努力を重ねていかなくては、「学ぶ」になりきらない。
 私は今の時代が、冷めているのか、苛立っているのか、それとも諦めているのか、親切なのか、よくわからない。やや無関心、無機質のような気もしなくはない。かと思えば、自身に向けられたものに対しては些細なことで大騒ぎするような気もする。文化において重ねられてきた「凶暴性」が発せられた根源は、自身も含めた不特定多数の「幸福」を手に入れる精神であったのではないか。よくそんなことを思っては、焦りと、得体の知れない恐怖心がやってくる。自分は真剣に、生きるという覚悟に向き合っているのか、と。

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musiquartierーピアニスト深貝理紗子のミュジカルティエ
クラシック音楽を届け、伝え続けていくことが夢です。これまで頂いたものは人道支援寄付金(ADRA、UNICEF、日本赤十字社)に充てさせて頂きました。今後とも宜しくお願いします。 深貝理紗子 https://risakofukagai-official.jimdofree.com/