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【10クラ】第2回 クリスマス
10分間のインターネット・ラジオ・クラシック【10クラ】
00:00 | 00:00
第2回 クリスマス
2020年12月25日配信
収録曲
♫ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー:『四季』-12の性格的描写-より
第12曲「12月・クリスマス」 Op.37bis 変イ長調
♫ヨハン・セバスティアン・バッハ:『主よ、人の望みの喜びよ』
(教会カンタータ『心と口と行いと生活で』BWV147より 第10曲/終曲 コラール合唱「イエスは変わらざる我が喜び」に基づくマイラ・ヘスによるピアノ独奏版編曲)
オープニング…サティ:ジュ・トゥ・ヴ
エンディング…ラヴェル:『ソナチネ』より 第2楽章「メヌエット」
演奏&MC:深貝 理紗子(ピアニスト)
プログラムノート
孤独の隣に神がいる―
プロテスタントである小説家の三浦綾子氏は、折に触れてこのように書き記している。
思春期の頃に氏の文章に触れてから、それは私にとってかけがえのない居場所となった。導かれるようにトルストイやルソーを手に取り、聖書に至った。
氏は、こうとも言う。
揺るぎない光、それは神であると。
氏は、敗戦・大病のなかで、自らをクリスチャンへ導いた最愛の恋人を亡くした。病床に臥し、空虚な心のまま迎えたクリスマスは、もっとも静かな祈りに満ち、不思議なほどイエスを感じたのだという。
孤独は神への道だとたびたび文学者たちは綴る。
孤独は創作の入口だとも、挑戦者たちは語る。
ふと取り残されるような孤独を、チャイコフスキーの音楽に感じる。
華やかなヴァイオリンコンチェルトも、ド派手なシンフォニーも、胸の張り裂けそうな哀しみに満ちている。あの音響のなかには、作曲者の涙が流れている。
チャイコフスキーが同性愛に悩み通していたことはその一端であるかもしれないし、ロマン主義に溢れた詩情は近代ロシアの風潮にそぐわなかったこともそうかもしれない。
何にせよ、これだけ琴線に触れる音楽を書ける人物の心は極めて感じやすく繊細で、"生きにくかった"のではないだろうか。
つくづく思う。
苦しみのなかで書かれた音楽には、なにか特有の愛や優しさが溢れている。
今回の『四季』は、1月から12月の計12曲の小品から成っている。コンパクトに魅力の詰まった小品集は、作曲者の等身大のつぶやきのようである。
ここに私は、シューマンのピアノ作品、それも内向的な『子供の情景』や『森の情景』に類似した世界観を覚える。
創作の深い森へそっと足を踏み入れるとき、彼らは孤独であったと思う。
このふたりには、かの偉大な文豪E.T.A.ホフマンが流れている。
ホフマンの幻想世界はチャイコフスキーの『くるみ割り人形』に代表されるし、多くの作品のなかにバレエ的なキャストが目に浮かぶのも、役割配置が明確だからであろう。
対してホフマンの『牡猫ムルの人生観』を愛読していたシューマンは、その二面性(フロレスタンとオイゼビウス)といい、パッチワークのような挿入的モチーフといい、『ムル』そのものである。そこには狂気と、現実世界を超越した時空が広がっている。
ふたりは人生の終わり方を見ても、苦しみが滲み出ている。それが故に、作品には深い愛と心からの歌が溢れている。
自身ではなく、イエスを描いたのがバッハである。バッハの十字架のモチーフや半音階の意味する受難は、その後多くの作曲家の作品に意味深く登場する。
今回の教会カンタータは救い主イエスを賛美する、慈しみに満ちた作品である。痛々しい響きで表される苦難をも光を纏っている。
この作品の親しみやすさのひとつとして、主旋律がラーレ間の4つの音のなかで歌いきれることが挙げられる。これはおおよそ5つの音のなかで歌いきれるベートーヴェンの「歓びの歌」と共通するところだろう。
ゆっくりと、ぽつぽつと歩みを進めるようなこの作品には、神の賛美とともに、生きる(生きた、これから生きる)全ての人への祈りの愛を感じる。
「愛」の方向性を今一度自身に問いかけたくなる音楽に、最大限の感謝を寄せたい。
2020年12月25日配信
収録曲
♫ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー:『四季』-12の性格的描写-より
第12曲「12月・クリスマス」 Op.37bis 変イ長調
♫ヨハン・セバスティアン・バッハ:『主よ、人の望みの喜びよ』
(教会カンタータ『心と口と行いと生活で』BWV147より 第10曲/終曲 コラール合唱「イエスは変わらざる我が喜び」に基づくマイラ・ヘスによるピアノ独奏版編曲)
オープニング…サティ:ジュ・トゥ・ヴ
エンディング…ラヴェル:『ソナチネ』より 第2楽章「メヌエット」
演奏&MC:深貝 理紗子(ピアニスト)
プログラムノート
孤独の隣に神がいる―
プロテスタントである小説家の三浦綾子氏は、折に触れてこのように書き記している。
思春期の頃に氏の文章に触れてから、それは私にとってかけがえのない居場所となった。導かれるようにトルストイやルソーを手に取り、聖書に至った。
氏は、こうとも言う。
揺るぎない光、それは神であると。
氏は、敗戦・大病のなかで、自らをクリスチャンへ導いた最愛の恋人を亡くした。病床に臥し、空虚な心のまま迎えたクリスマスは、もっとも静かな祈りに満ち、不思議なほどイエスを感じたのだという。
孤独は神への道だとたびたび文学者たちは綴る。
孤独は創作の入口だとも、挑戦者たちは語る。
ふと取り残されるような孤独を、チャイコフスキーの音楽に感じる。
華やかなヴァイオリンコンチェルトも、ド派手なシンフォニーも、胸の張り裂けそうな哀しみに満ちている。あの音響のなかには、作曲者の涙が流れている。
チャイコフスキーが同性愛に悩み通していたことはその一端であるかもしれないし、ロマン主義に溢れた詩情は近代ロシアの風潮にそぐわなかったこともそうかもしれない。
何にせよ、これだけ琴線に触れる音楽を書ける人物の心は極めて感じやすく繊細で、"生きにくかった"のではないだろうか。
つくづく思う。
苦しみのなかで書かれた音楽には、なにか特有の愛や優しさが溢れている。
今回の『四季』は、1月から12月の計12曲の小品から成っている。コンパクトに魅力の詰まった小品集は、作曲者の等身大のつぶやきのようである。
ここに私は、シューマンのピアノ作品、それも内向的な『子供の情景』や『森の情景』に類似した世界観を覚える。
創作の深い森へそっと足を踏み入れるとき、彼らは孤独であったと思う。
このふたりには、かの偉大な文豪E.T.A.ホフマンが流れている。
ホフマンの幻想世界はチャイコフスキーの『くるみ割り人形』に代表されるし、多くの作品のなかにバレエ的なキャストが目に浮かぶのも、役割配置が明確だからであろう。
対してホフマンの『牡猫ムルの人生観』を愛読していたシューマンは、その二面性(フロレスタンとオイゼビウス)といい、パッチワークのような挿入的モチーフといい、『ムル』そのものである。そこには狂気と、現実世界を超越した時空が広がっている。
ふたりは人生の終わり方を見ても、苦しみが滲み出ている。それが故に、作品には深い愛と心からの歌が溢れている。
自身ではなく、イエスを描いたのがバッハである。バッハの十字架のモチーフや半音階の意味する受難は、その後多くの作曲家の作品に意味深く登場する。
今回の教会カンタータは救い主イエスを賛美する、慈しみに満ちた作品である。痛々しい響きで表される苦難をも光を纏っている。
この作品の親しみやすさのひとつとして、主旋律がラーレ間の4つの音のなかで歌いきれることが挙げられる。これはおおよそ5つの音のなかで歌いきれるベートーヴェンの「歓びの歌」と共通するところだろう。
ゆっくりと、ぽつぽつと歩みを進めるようなこの作品には、神の賛美とともに、生きる(生きた、これから生きる)全ての人への祈りの愛を感じる。
「愛」の方向性を今一度自身に問いかけたくなる音楽に、最大限の感謝を寄せたい。
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