美術展特別イベント「展覧会のピアノリサイタル」終演後記
はじめに
2022年10月1日(土)に台東区・浅草の『大黒屋倶楽部』にて画家・秋山里奈さんの個展内特別イベントであるピアノリサイタルが無事に終演いたしました。
定員と設けていた予定数から増設し、多くの熱気と色彩豊かな絵画に包まれた空間となりました。ご来場いただきました皆様、応援していただきました皆様、本当にありがとうございました。このような場に携わらせていただきましたことを心より御礼申し上げます。
少し時間が空いてしまいましたが、今回もまた演奏会後記をプログラムノートと兼ねて、こちらに書かせていただきます。もしご興味持ってくださる方がいらっしゃいましたら、ぜひ目を通していただけますと嬉しいです。
プログラム
🎨エマニュエル・シャブリエ:『10の絵画風小品』より第10曲「スケルツォ・ワルツ」
🎨フランシス・プーランク:『3つの小品』より第3曲「トッカータ」
🎨ジョルジュ・ビゼー:『絵画的素描』より第2曲「セレナーデ」
🎨セシル・シャミナード:『6つの演奏会用練習曲集』より第2曲「秋」
🎨セシル・シャミナード:カプリース・アンプロムプチュ
休憩
🎨エリック・サティ:グノシエンヌ第5番
🎨石川潤:『未来のためのピアノ曲集』より第2曲「邂逅のワルツ」
🎨石川潤:『未来のためのピアノ曲集』より第4曲「ユーモレスク」
🎨モーリス・ラヴェル:『鏡』より第2曲「悲しき鳥たち」
🎨モーリス・ラヴェル:水の戯れ
🎨クロード・ドビュッシー:仮面
🎨クロード・ドビュッシー:喜びの島
🎨【アンコール】マニュエル・デ・ファリャ:『恋は魔術師』より「火祭りの踊り」
色を集める
初めてその絵を観た時、色があらゆる方向から飛び込んできた。伸び伸びと放たれている色たちが、自分の眼という一点に集約してきたのだ。その絵画展の特別イベントで演奏すると決まってからは、絵画と音楽作品が「色」という共通項を基に刺激もし溶け合いもする空間を創りたいという軸が成り立った。普段から「奏者は伝達者」であると思っている。作品に最大限のスポットを当てるために身を粉にして働く(=音楽する)のが、やるべきこと。それ以上も以下もなく。
放たれている色が自分に飛び込んでくる―似たような感覚を音楽で味わったことがある。中学生の頃だった。この心躍る、さまざまな色が「生きやすそうに」している音楽は何なんだろうー
それが、エマニュエル・シャブリエの『スケルツォ・ワルツ』だった。
彼の音楽は呼吸がしやすい。しなやかで明るい。自ら明るくできる力を持っている。それは悩みや苦しみを知らないということではない。むしろ人一倍知っているからこそ手に入れ得た強さである。内務省の役人だった彼は教養高い人物であり、ガブリエル・フォーレ、ヴァンサン・ダンディなど「フランス近代音楽の礎」を築いた面々と交流を持っていた。さらに画家のマネ(かの美しき『フォリーベルジェールのバー』はシャブリエの所蔵だった)、モネ、セザンヌ、ルノアールなどとも親しく、カフェ談義を交わす仲だったようだ。非常に豊かな色彩感は、このような豊かな人間関係と経験、教養から滲み出てくるのかもしれない。
メランコリーの吐息
小洒落てはいるがメランコリックな装いを拭いきれない人がいる。フランシス・プーランク、シャブリエのカラフルさを受け継ぐ重要な人物である。
彼もまた音楽学校では学んでいない。製薬会社の御曹司、生活の面で苦労はあまりしなかったようにも見られるが、その分音楽の道に行きたいという理解を家族から得られにくかった。母親が趣味としてピアノを演奏することも大きかったかもしれない。家業の片手間として嗜む程度なら―ということだったのだろうか。
それでも名教師リカルド・ビニェス(ドビュッシーやラヴェルの作品を多く初演している)との出会いによって創作活動は広まった。ビニェスのおかげで面識を持つことができたエリック・サティの影響は大きかった。高尚ではない、というある種の劣等感も抱いていたような「カフェに合う音楽」への自信を持つことができた。
彼のメランコリーは恋愛面からも大きいように思う。彼が恋をしたのは男性だった。コクトーやヴェルレーヌの作品を見たものなら感じ取れる「壮絶な愛」や「狂気の愛」、「生きる」激しさといったものがプーランクにも流れていたのではないだろうか。真剣なようで、諦めてもいるようで、空元気にも見え、幸せを渇望しているようにも見える。
音楽の良いところは、手に入れることができた幸福のみならず、叶わなかったものへの憧憬やさまざまな感情が全て「音楽」に昇華してくれるところだと常々思う。芸術は、どこか殺伐と尖っていないとなかなか生まれてこない。
恋といえば。
どろどろの恋物語を描いた人物がいる。ジョルジュ・ビゼー、オペラ『カルメン』の作曲者である。フランス・オペラの立役者としての面が強いが、とても優しく甘美なピアノ曲も書いている。彼はきっと、優しい人物だった。そして先見の眼を持つ人物だった。それはこのエピソードを知ったら思うことだ。
セシル・シャミナード―彼が生み出した「女性として初めて成り立った」職業音楽家である。裕福なブルジョワ家庭のシャミナード家に出入りしていたビゼーは、その小さな女の子を音楽的に非常に気に入って奔走した。女性の身分が著しく低く、音楽院に入ることさえ叶わなかった時代にも関わらず、パリ音楽院の教員を紹介し、指導を受けさせた。
当時作曲家として地盤を築くのに欠かせなかった「国民音楽協会」への道筋をつけてくれたのもビゼーだった。正会員になれた頃にはビゼーはこの世を去ってしまう。そこからいよいよシャミナードは男性社会で孤軍奮闘したわけだが、ここまでの行いを見ても、ビゼーは女性の自立に関して大きな理解を示していたことが窺える。
思えば『カルメン』も非常に型破りな強い女性だ。「ジプシーの悪女」として片付ければそれまでの話かもしれないが、女性として、私はカルメンの魅力は「強さ」だと思う。彼女は自身の自由を貫いた。恋に生き、自身のアイデンティティ、誇りを存分に守った。あの最期はむしろ、行く末を知っていながら「自ら選んだ」と解釈している。でなければあれほどの女性が純朴なホセの剣に倒れることに納得がいかない。ビゼーは女性の個としての輝きを引き出してくれる作曲家だったのではないか―そのように感じている。
自己は変動せず
シャミナードの「男性社会との闘い」は家のなかでもあった。封建的な父親から離れないことには、彼女の夢は全うされない。裕福だったとはいえ、親の意に反する道を選んだ彼女は自分の足で歩くしかなかった。
そんな彼女に作品発表の依頼を出したのは海の彼方―「自由の国」アメリカだった。彼女は女性の進出がいち早く行われていたアメリカで実績を得、イギリスへも活動の場を広げていった。自国フランスがその存在を認めるようになったのはそれ以降、つまり「逆輸入的」存在となった。その間にシャミナードは楽譜商と結婚するが、自身の活動と夫の活動をはっきりと分けたこの夫婦は、今でさえ「新しい」と受け止められる別居婚だった。
周囲の「騒々しい」目をよそに次々とヒットを生み出す、云わば「ヒットメーカー」となった彼女に対し、アカデミックな音楽家界隈が冷ややかに嫉妬していたことも否めない。そのため「芸術性の低い大衆音楽」などと評されてきたようだ。しかしこのような時代に、自分自身の力で生活をし仕事をしている―これは画期的なことではないだろうか。
そもそもその批判だと、「芸術性の低い」音楽がヒットする=大衆をバカにしている、という構図が出来上がってしまう。今でも「本物の音楽」という議論が生まれるが、何をもめることがあるだろう。自分が良いと思ったものは良い。人が何と言おうがその価値が変動するほうが可笑しい。逆も然りである。人から褒められようがけなされようが、自分自身の価値は何も変わらない。自分の信じる道を、自分のペースで歩み進めれば良いだけのこと。
シャミナードを見ていると、本当に勇気をもらえる。そして一番大切なこと―私はシャミナードの音楽が、心のある内容深い素敵な音楽だ、と断言したい。現にシャミナードの『秋』を演奏している間の、聴衆との静寂な心の会話!いま、会場がこの「音」を中心にひとつになっている―そのような感覚を持たせてくれたことはこの上なく幸せな瞬間だった。
そっと佇む優しさ
後半は私がその理念への追求をし続けたいと傾倒しているエリック・サティのピアニッシモを入り口として。あまり演奏機会は多くないが『グノシエンヌ』の第5番は限りなく優しい。いつの間にかそこに居て安心を与え、大丈夫そうになったらいつの間にか離れたところから見守っている―そんな存在。賑わいの休憩時間から再び戻ってくるのに、親密な空気を作り上げてくれる存在だと感じている。
生の温度
そして『未来のためのピアノ曲集』から第2曲「邂逅のワルツ」と第4曲「ユーモレスク」を生演奏初演。コロナ禍初期、演奏会が軒並み中止・延期となっていた頃に友人作曲家の石川潤氏からプレゼントしてもらった全5曲から成る作品集だ。オンライン上で初演をしているが、生演奏では今回初めてだった。たまたま読んでいた本に、武満徹氏がこのように記していたのを見た。
「現代の音楽は初演をされたらそれっきりになってしまう」
この言葉が、えらく心に響いてしまった。これは詩人や美術家、演出家なども交えた芸術談義のなかで出てきた言葉だったが、「簡単に名声を得やすいもの」や「流行に乗っかった一時的なもの」、「いわゆる万人受けという型にはめられたマニュアルに沿ったような企画」に対する危惧でもあった。
同時に私の場合は、曲を書き、音楽活動での開拓を続け、それぞれのオリジナリティを尊重し合える友人がいるからには、やはり演奏していかねばと改めて感じたのだった。
「邂逅のワルツ」のどこかアンニュイな要素は雨に湿ったパリの街並みや匂いを想い出し、とても気に入っている。それにも増して邂逅―巡りあい。一期一会の演奏会にピッタリの言葉であるし、今回の演奏会の趣旨にも合っていると思い選曲に至った。演奏会は、その場に集まった誰か一人でも違ったら、全く異なる内容になるとさえ思っている。そのくらい「存在する」という意義は大きいのだ。少なくとも私にとっては。これまで最大で2000人収容の会場でも演奏してきたが、自分にとってはどのような規模でも「人と人」の「一対一」の関係を成り立たせていたい。MCでは必ず見渡す限りの方と目を合わせたいと思うし、ゲネプロではステージから一番離れた場所に立って距離を覚えるようにしている。
毅然とした「ユーモレスク」もオンライン初演の際反響が大きかった。コロナ禍では確かにいろいろなことがあった。それもこれも人生のタイミングだったのかもしれないが、そのトンネルを今に繋がるまで歩いている仲間たち、多くの方々へ、「私たち、本当に頑張ったよね」と心から言いたくて、さらなる未来を拓いていこうという願いを込めて演奏した。
壊れそうなほどに
孤独という意味で、私たちはひとりじゃない―どこまでも繊細なラヴェルは、透明な鳥の鳴き声で静寂を創る。悲しき鳥たち、なんて美しい作品だろう。この作品はデビューCD『Parfum』にも収めているので、その音色の切れ際までお聴きいただけたら嬉しく思う。
そしてその流れのまま「水にくすぐられて笑う川の神」を描いたレニエの詩に基づく描写を。音で描く絵画、景色。水の表現にラヴェルの煌めく才を想う。
仮面と人間
人生を劇場のように例えたのはシェイクスピアだった。彼の描く人間ドラマは現在でも残酷なほど素晴らしく、人間の内面に迫っている。文学と通じる作曲家にはシューマンが代表的ではあるが、ドビュッシーもかなりの読書家だった。そのなかでも、彼の「仮面性」は非常に深く人間を描いているように思え、興味を持っている。ジャズ的な要素も織り交ざる『仮面』が当初からなかなか評価を得られなかったこと、そして今でもほとんど演奏されないことがどうも長年不満だった。まして、これはドビュッシーの意図では『喜びの島』と収められるはずだったというではないか。今年はドビュッシーの160回目の誕生年である。この際、この2曲をまとめて弾くことで私なりの敬意を込めてみよう。そう思っての選曲である。
「仮面」―人間は誰しも持ち得るものではないだろうか。或いは自分でも気が付かないうちに潜めているものかもしれない。そのほうがかえって闇深い深層心理といったところだろうか。フランス音楽の素晴らしいところは、深めたいと近付けば近付くほど多くのトリックがあり、教養も経験も求められる一方、表面はいかにも軽やかでしなやかな美を放っている「美意識」の高さにあるように思う。人間がより人間らしくいられるための美意識。彼らは想像以上にもがき、苦しみ、人生の悲哀を生きている。そして「エスプリ」と分類されるところの笑いで覆い、孤独で繊細な器から、唯一無二の香りを解き放っている。
アンコールは、ハッピーエンドをつかみ取る悪魔祓いの舞「火祭りの踊り」を。今回の主役である画家、秋山里奈さんは「幸せの共感」をモットーに活動されていた。その想いを、囲まれた絵画から感じながらの稀有な時空間であった。
画家、秋山里奈さんのホームページ
今回の撮影をしてくださったカメラマン、平塚音四郎さんのホームページ
終演後のCD販売のサイン会。ありがとうございます!!
『未来のためのピアノ曲集』YouTubeプレイリスト*オンライン初演2020年9月
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CD『Parfum』プロモーションビデオ
メジャーデビューのお知らせメッセージ
今後ともよろしくお願いいたします。