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フォトグラメトリをした3Dモデルから意味を見出したい。 ー道標をデジタル拓本 その2ー
私はフォトグラメトリで生成した3Dモデルを単に愛でるのも好きですが、その3Dモデルから何らかの意味を見出したいとも思っています。このシリーズでは私が作成した3Dモデルのうち、石塔や石仏、石碑の3Dモデルから私なりに読み取れたこと、そこから仮定したことを綴っていきたいと思います。
このシリーズの1回目では「廃仏毀釈」を取り上げました(その1、その2、その3、その4)。そこそこ重いテーマでしたのでnote記事の執筆が大変になり、最後には結論を急ぐあまり内容が雑になってしまいました。その反省を踏まえて今後は執筆が重荷にならないような書き方をしたいと思います。
今回のテーマは「道標をデジタル拓本」です
■西東京市西原5丁目の庚申塔道標
このシリーズ、「その1」からいろんな前置きを書いたので重荷になってしまいましたので、今回はいきなり本題に入ります。
□まずは外観
フォトグラメトリーを始めた最初の頃に祠と周辺の様子も含めた3Dモデルを作っていました。以下のリンクはSketchfabにアップした3Dモデルです。かなり立派な祠です。
写真も掲載します。祠の脇には「庚申塔改修記念 平成三年九月十日」の銘文(これまでは「刻印文字」と書いていましたは専門書の標記の「銘文」を使います)が彫られた記念碑が建っています。記念碑の裏にも「所沢街道拡張の為移転落成記念」という銘文が彫られています(そして2024年にはこの付近から分岐する新所沢街道が開通しましたが、この祠は移転していません)。
![](https://assets.st-note.com/img/1719834050422-2Y2RsIVwd4.jpg?width=1200)
□デジタル拓本の結果
そして、デジタル拓本の結果です。画像は上からテクスチャー付モデル、ソリッドモデル、EDLフィルタ適用モデル、SSAOフィルタ適用モデルです。3Dモデルの作成はRealityCaptureで行い、フィルタの適用と画像出力はCloud Compareを使いました(画像右下のスケールバーはここでは無意味なものですので気にしないでください)。
石塔の正面には庚申塔としては(私の知る限り)典型的な青面金剛像、邪気、三猿のレリーフが彫られています。青面金剛象の両脇と台座部分に銘文が彫られていることが分かります。左右の面にも銘文が彫られていますが背面には銘文は彫られていないように見えます。EDLフィルタを施したデジタル拓本がレリーフの細部や銘文の内容を捉えやすいと思っていますが、皆さんはいかがでしょうか。
![](https://assets.st-note.com/img/1721197147699-cAnTLhBiCH.png?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1721197254976-i2ZLPW7epU.png?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1721197266007-gstVLHnad0.png?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1721197275626-QSWJJ9ihMQ.png?width=1200)
下の図はデジタル拓本をした結果から読み取れる(推測した)刻印文字の内容を示しています。銘文は正面と左右の面には彫られていますが、背面には彫られていないように見えます。正面右側の銘文で□とした部分は読み取れなかった文字を表しています。正面左側には「寛延二乙巳年十一月吉日」と彫られています。寛延二年(1749年)に造立されたのでしょう。台座には「講中 三十五人」と彫られていますので、この地域には少なくとも35世帯があり、この方々が奉納されたのだと思います。
ところで、その1で取り上げた地蔵道標(1781年造立と推定)は旧田無邑に造立されていました。この庚申塔の左面にも「武州多摩郡田無村」と彫られているので、この庚申塔がある地域も旧田無村だったのでしょう。しかし、”重箱の角突き”ではありますが、1749年の時点では「州」「村」という文字を使っていて、それより30年程度あとの時代では「刕」「邑」という字体を使っていたのでしょうか。古い時代の方が現代と同じ文字を使っているというのは意外ですが、もしかしたらこの時代、どちらも使われていてあまり気に留めてなかったのかも知れません。ちなみに左右面の「王」は実際はくずし字で彫られており「わ」と読ませるようになっています。また、左面の「道」も実際はくずし字で彫られています。私は「道」部分の文字が「遍」(「へ」と読ませる)が似ていたので、「ここは『ちゝちふへ』)と彫られているのではないだろうか」と思ったのですが、人文学オープンデータ共同利用センターの日本古典籍くずし字データセットで確認したところ、ここに彫られている文字は「道」だということが分かりました。
![](https://assets.st-note.com/img/1720871093773-bqV1sSNvMR.jpg?width=1200)
□道標としてみる
デジタル拓本をした結果から読み取れた道標銘文の内容は次の通りです。
![](https://assets.st-note.com/img/1720874751054-sUtOWEOjrK.jpg)
その1とおなじように国際日本文化研究センターが運営する「所蔵地図データベース」から取得した古地図を使って道標が造立された当時の地点を推測します(地図の使用にあたっては同センターに相談してnote記事に掲載することについて了解をいただいています)。といっても、古地図に記されたこの付近の旧道の多くは現在とほぼ同じネットワークなので、おそらく現在の造立地点とほぼ同じなのだろうと推測しています。ということで、下図には現在の造立地点を赤い△マークで示しました。
![](https://assets.st-note.com/img/1720876219360-XoSHvGB0bK.jpg?width=1200)
また、銘文で示している「ところざわみち・ちちぶみち」と「まえさわみち」は青色矢印で示した方角だと推測しました。「ところざわみち・ちちぶみち」と推測した方角の道は現在の所沢街道(2024年に開通した新所沢街道ではない)ですし、以下のサイトで1894~1915年の古地図をみるとこの道沿いに「秩父道」という標記があるので、道標が指す道はおそらくこれで間違いはないでしょう。
一方、「まえさわみち」と推測した方角の道は確かにその延長線上に前澤村(上図では赤色下線部)があるのですが、道標から間もない地点で途切れているような気がします。そのため、この道標はもともとは少し南東の分岐点にあったのではないかとも思ったのですが、そうすると前澤村方面ではなく南澤村(上図では緑色下線部)へ通じてしまします。やっぱり地図上で示した方角で正解なのかなと思いましたが腑には落ちませんね。そもそも、「ところざわみち・ちちぶみち」方面に向かっても前澤村に通じるようなので、ここで分岐しない方が分かりやすいのではないかとまたもや余計なお世話も考えたりしました。(当時は主要道も脇道も道幅は同程度だったのでとにかく分岐点では何か案内をしておく必要があったという事情でもあったのでしょうか)
□何か見出せたか
今回も無理矢理に何か見出したいと思います。
見出したというより、自分がまだくずし字をよく知らないと実感。
見出したというより、「なぜここでこの案内をしたのだろう」という謎の深まり。
その1の谷戸2丁目地蔵道標も田無邑なので、1749年から1781年の間はすくなくとも下図の赤円で囲った辺りは田無村のだったのだろうと推測(といっても、他の文献を調べれば田無村の範囲は一発でわかるのでしょうけど)
![](https://assets.st-note.com/img/1721004685820-OkQ3bl6qIw.png?width=1200)
まだ、記事が長いですね。銘文が読みやすければ文章でおさらいしなくても良いかもしれませんね。
西東京市にはまだたくさんの道標石造物があるのですが、2024年7月時点ではまだフォトグラ撮影をしたのがその1とその2の2点だけです。そしてこれから殺人的な暑さの夏に入りますので撮影は涼しくなる9月下旬から再開したいと思います。次回の記事ができあがったらTwitter(私の中ではあくまでもTwitterなのです)でお知らせします。