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生きるのは本当は哀しいのかもしれない。哀しいけれど、命はやはり熱く暖かい/マーラー 交響曲第9番 第4楽章(最終回)

【プロローグ】この広い大地に、ひとりたたずむ人間が…

この広い野原いっぱい咲く花は、何の花だっけ?

私に花の名前を聞いてはいけない。
私は花の名前に疎いのだ。バラとひまわりくらいの違いはわかる。けど、ヒアシンスと百合を見て、その違いがわかるか?と問われると怪しい。花だけではない。草も木も種類は全くわからない。つまり、全く興味の対象の外にあるわけである。まあ、それはともかく…。

最近奇妙な夢を見る。

広い野原、というより大草原。家も何も見えない、ほんと何にもない草の海だ。牛も馬もいない。空がなくすべて草、そして草。
※「草の海」という言葉は椎名誠氏のモンゴル紀行ルポの書名より拝借。草の匂いや広々とした草原が目に浮かぶような優れた題名だと思う。

あるいは、真っ白い雪、雪、雪、木も葉もない一面銀世界。

どちらのイメージにも人は誰もいないし、動物もいない。一人なのだ。その誰もいない草原や雪原をとぼとぼと歩いている。何のために歩いているかはわからない。ただ歩き続けている。音はしない。風の音もない。自分の足が草と擦れあう音さえもしない。

言いようのない恐怖感の中もがいているうち、目が覚める。汗ばんでいる。寝ぼけ眼で辺りを見回す。時計の音が「チッチッチッチ」、冷蔵庫が「グアーン」と低い音を出しているのを、意識した時、やっとホッとする。

ああ、俺は今日も生きている…。


人はこの広い地球に一人生まれ、一人死んでいく。当たり前のことなのだが、それは逃れようのない真実なのだ。いくらこの世で、愛しの家族や友たちと楽しい日々を暮らしても、結局は一人で死んでいかねばならない。

そういう真実といかに真面目に向き合うか?そんな事を考えるようになったのは、肉親や身近の死と直面するような年齢になってきたからだろうか。自分も無縁ではないと思えるようになったからだろう。

広い広い地球に、ぽつんと一人たたずむ自分を想像してみよう。なんと寂しいことか。そして、いつかはその寂しさをかみ締める、その日が来る。

胸一杯に空気を吸い、もう一度考えてみる。生きるのは本当は哀しいのかもしれない。哀しいけれど、命はやはり熱く暖かい。それをかみしめてそう思うとき、人は人を愛おしいと心底思えるのではないだろうか。

マーラー「交響曲第9番」第4楽章を聞いていると、なぜかこんな感情が湧いてくる。


マーラー 交響曲第9番 第4楽章(最終回)

第4楽章は第1楽章との結びつきが深い。そして、注意深く聞いてみると、下手だけど踊りたくて仕方ない仲のよいカップルみたいな第2楽章と、神経質で自分勝手な小心者の男のような第3楽章も、すべての源はひとつではないだろうかと感じる。交響曲だから当たり前の話だが、この9番の場合はいっそう強く感じるのである。

それにしても美しい。昔「美しすぎて」(Garo)という歌があったが(あれは女性が美しすぎるのかと勘違いしたくなる歌だが、思い出が美しすぎたのだ。ま、そんなことはどうでもよいが…)、言葉を失う美しさとはこのことだろう。マーラーのアダージョはどれも絶品と評判だけれど第9番の最終楽章は群を抜いている。

編成はマーラーにしてはそう大きくない。
と、書いて比較対象を、私は前の8番「一千人の交響曲」としていることに気が付く。あれと比べればどの大編成の作品だって「そう大きくない」といえる。

だから、オーケストラなのに、聞き方によっては室内楽に思えてくる、と、いいなおさなければならない修正しよう。これ本当ですよ。

冒頭の15小節は、第1、第2ヴィイオリン、ヴィオラ、第一、第二チェロ、コントラバス弦楽六重奏と呼んでいいし、28小節から6小節はコントラファゴット、第一ヴァイオリン、チェロ、コントラバスの4重奏。その他イングリッシュホルンが出てきたり、クラリネットのアンサンブルがあったり、本当に室内楽が出てくる。まあ、弦楽器は一パートを複数の奏者で弾いているのだから、厳密にいえば室内楽ではないが、清らかな音色に心洗われる気がする。

それに、楽器が「でしゃばらない」のだ。耳にうるさくない、といった方が適切かもしれない。木管楽器、金管楽器、打楽器が束になって攻めてくることもなく、常に主役は弦楽器で終始おだやかな音楽が進行する。


特に、冒頭弦楽器がまずトップで奏でるあの、とことん叙情的なメロディを聞いて欲しい。メロディだけでなく、他の弦楽器の動きも注目しよう。私は今日の文章で書きたいことは、この冒頭部のメロディの事だけ、それですべてなのだ。このメロディは第4楽章で何度も何度も出てくる。ホルンの音色も泣かせるし、唯一全楽器で飛び立つように奏でる和音も、実はあのメロディの結集のようなもの。

次に、コントラファゴットによる不気味な調べ。これはチャイコフスキーのやはり最後の交響曲「第6番」の冒頭メロディを思わせる。地獄の底からやってきた使者だろうか、恐ろしい雰囲気に身震いする。この身震いメロディも何度も出てくる。

高音と低音のハーモニーも素晴らしい。たとえば四声あるとして、そのうちの最高部と最低部のハーモニーは、味があるし、かなり快感である。このように、個々の楽器の調べを耳で受けながら、他の楽器の動きを確かめる。そういう楽しみ方もできる。

そして、極めつけは、クライマックスにおける第一、第二ヴァイオリンの気が狂ったかと疑わざるを得ない高音の執拗な叫び。「おお!どうしたんだ!」と誰もが驚くに違いない。悲鳴にも近いし、最後の力を振り絞り大声を出す。または心の叫びかもしれない。


大袈裟な主張もなく、ただ淡々と流れる音楽。美だけでないドロドロとした人間の情念も垣間見させるけど、清流のようにゆっくりと流れている。しかし底にはあふれる情熱が火のように熱く。そしてすべてが真っ白。真っ白な炎をただ、遠くから見ている、そんな感じだ。

この交響曲の最終楽章は終わりそのものなのである。

第4楽章を書き終え、その後第10交響曲の第一楽章アダージョを書いた後、マーラー自身が死んでしまった。最後、いつまでも音を続けようと、弦楽器がppp、ppppとなりほとんど聞こえなくなっても鳴らす。けんめいに、音を続けようとするけれど、続かないのか、続けるのをやめるのか。そして、ついに最後は消えてなくなる。そのけなげさが感動と涙を誘う。

スコアの最後に、ersterbendとある

sterbenは「死ぬ」。おお、死ぬんだ。死とは無になること。実際は「消えていく」というような意味なんだろうが、意味深。耳を澄まし、本当に聞こえなくまるまで息を飲んでいる。こういう余韻をいとおしむ曲の場合は、指揮者が手を下げてもすぐ拍手をしてはいけない。

10秒くらい間をおき、静かに拍手が始まって欲しい。いきなり「ブラボー」と叫ぶなどとんでもない。こういう作品は、静けさをかみしめたい。


【私の聞いたCD】

グスタフ・マーラー
交響曲第9番 ニ長調 第1楽章~4楽章
シカゴ交響楽団
指揮:ピエール・ブーレーズ
※緻密で楽器の動きがよくわかる名演。

グスタフ・マーラー
交響曲第9番 ニ長調 第1楽章~4楽章
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン

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