切なく、泣きたくなるから…できれば聴くのを避けたいブラームス
ブラームス クラリネット五重奏曲 ロ短調 作品115
ブラームスはできれば聴くのを避けたい作曲家である。
嫌いなのかって?
とんでもない。大好きなのである。恋しているといっても過言ではない。ただ、断っておくが、ブラームスその人に恋しているわけではない。あの物憂げで、しかしビールを生涯たっぷり飲み続けたと想像できるどっぷりとした体格、髭をたくわえたあのおじさんブラームスも、確かに若き日々はキリッとしたいい男である。あれなら惚れるかもしれん。い、いや、私は惚れないが。
いうまでもない。私が惚れているのはあの音楽だ。特に室内楽曲は欠かせない。ピアノ四重奏、ピアノ三重奏、ピアノ五重奏、いずれも傑作であり、何度聴いてもいい。なのにめったには聴かないのである。
その理由は。
切なくなり、時には泣きたくなるからである。ブラームスの曲を聞くとやるせない気持ちになる。それまであなたが経験した哀しいこと、切ない恋、なつかしい家族たち、今すぐに合いたい友、等々。ふだん忘れよう、考えまいと、わざと遠ざけている心の扉を、ブラームスはいともたやすく開けてしまうのだ、残酷にも。
だが、時には人は、その残酷な心の扉を開け、感情や感傷の中に浸ることだって必要だ。それまで避けてきた心の底のひとこまは、実は人にとって最も大切なひとこまだ。決して忘れてはいけないし、とことん哀しみ、寂しさを感じ、泣き、うちひしがれることで、大切なものの重要さが本当にわかるのではないか。
だからブラームスを聴くのはせいぜい3ヶ月に一度、できれば半年に一度にしたいものだ、私の場合。
ブラームス最晩年の作「クラリネット五重奏曲」は、モーツァルトの作と共にカップリングされているから目にすることは多いはずだ。しかし、この2作品のコントラストは凄い。
「明」と「暗」の癒し
モーツァルトの作品は傑作であることは誰もが認めるだろう。私はモーツアルトの多くの作品の中でも最高の部類と評価している。温かみとユーモアがあふれ、これほど美しいメロディの音楽はないとさえ思う。聴いた後、晴れ晴れとした気持ちになる。いわば「明」の癒しとでもいおうか。
一方ブラームスの作品は、もちろん美しさではモーツァルトにひけをとらないし、温かみもあるが、どこか暗い。なんて表現しようか、そう、北ドイツのどんよりとした冬の空。春を待ちこがれ生きている人間、植物、動物のような感じである。
しかし、暗さの中にも、あふれ出る生命もある。命の尊さである。そこが聴き手の心を「ぐっ」とつかむ。ブラームスのこの曲は「暗」の癒しである。
第一楽章冒頭の弦楽によるメロディを聞くだけで、身震いする
どうして、こんな泣かせるメロディを考えられるのか?そこんところ教えて欲しいものだ。そして、低音からゆっくりと高音へと移行するクラリネットの控えめな音色に、また泣きたくなる。困ったものだ。チェロとヴィオラの音色もボディブローのように効いてくる。第一楽章だけでぐったりと疲れる。
第二楽章は、森に囲まれた小さな家の中の暖炉を想像するといい
暖炉のそばにはおばあちゃんが揺り椅子で編み物をしている。老いた犬が静かに眠っている。おばあちゃんの頭に浮かぶのは遠くに住む息子たち家族のこと。孫たちは今頃どう成長したのか。
クラリネットの音色はその切ない思いを代弁しているようだ。弦楽器の和声は部屋の空気そのもの。中盤のクラリネットの低音域からのフレーズは本当にすごい。
ドラマチックな展開はおばあちゃんの人生を写す走馬燈かもしれない。低音と高音を巧みに使うクラリネットは、まるでソプラノとバリトンのデュエットのようだ。
はつらつとした第三楽章
暗い暗いとばかり言ってきたが、ブラームスの作品には、必ず前向きで、はつらつとした楽章がある。この第三楽章がそうだ。小屋を出て、森へ出ていくような開放感があると同時に、緊張感もある。森羅万象を映像で見ているような、スリルさえあるのだ。鳥のさえずり、動物の鳴き声などを思わせる音楽的演出。特にクラリネットの鳴き声は面白い。
再びメランコリックな第四楽章
最後の第四楽章では再びメランコリックな曲想へと戻る。第一楽章の兄弟みたいなものと考えていだろう。自在の変奏曲で楽しませてくれる。始まって間もなくチェロのソロが出てくる。
ソロの後のドラマチックで緊張感に満ちた弦楽器の演奏。そこにクラリネットの音色が登場すると妙にやすらぎを感じるのも不思議だ。それぞれ主役を務める各楽器の活躍もぜひ聞き逃したくない。
明日の活力のための疲れ
聞き終えると、ぐったりと疲れるに違いない。
でも、その疲れは、たぶん明日への活力のために必要な疲れである。休息の後には、きっと力がみなぎり、光の中へ飛び出ることができるのだ。そんな不思議な力を感じる作品をぜひ一度お聴きください。