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立つべきか、立たぬべきか、それが問題だ

~ヘンデル オラトリオ「メサイア」より「ハレルヤ」~

演奏会では、立たねばならないのか?

Jポップスのアーチストの演奏会に行きたいと、ときおり思う。でも、いつも止めてしまう。若者たちの中に混じるのが恥ずかしいわけではない。好きなアーチストを共有するのは気分がいい。でも、だめなのだ。理由は?
「立たなければならない」からだ。
Jポップスに限らず現代のコンサートのおぞましい光景を見たことがあるだろうか?なぜ観客はあのように立って頭の上で手拍子をとったり、踊ったりするのだろう。そりゃ、コーフンしてノリノリで体を動かしたくなる気持ちはわかるし、気持ちを体で表現するのは素晴らしい。感情を表に出さぬ日本人は、海外の人から見れば奇妙かもしれぬ(感情を表に出さないのは日本人だけではないのだが…)。
が、少しは「立ちたいけれど、心の中の何かが邪魔し立つことのできない人々」のことを考えて頂きたい。座っている人だって共に心の中でシャウトし、「イェーイ」と言っている。立っている君たちと一緒なんだ。ただ、長年の人生経験やら、プライドやら、羞恥心やらが邪魔して立てない。幼い頃両親や祖父母に「みっともない真似をしてはいけない」と教わってきたではないか。彼らにはコンサートで立つという行為そのものが「みっともないかも?」という深層心理があるのだ。「みんながやっているんだら、まあ、気にせずに」という助言はこの際役に立たぬ。実直だからね。みな「立つべきか、立たぬべきか」をコンサート中迷っているはずだ。これはある意味で拷問に等しい。
私はいいたい。音楽はちゃんと座って聞きなさい。
しかし、この言葉は虚しく静寂の音としてこだまするのである。The Sound of Silence のように。
それにきわめて実利的発言をすれば、せっかく椅子があるのに立つのはもったいないではないか。料金にはこの座席使用料も含まれているのだから。席が必要ないなら席のない会場でコンサートを行えばいい、……とブツブツ。
実際は立たなくとも別段何の問題もない。座ったままの観客を係員が外へ連れ出すということもないし、若者達が座っている人を「ばっかじゃねーか」って馬鹿にすることもない(よね?)。度胸がすわった人なら気にせず、座っているしね、小泉さんのように。まあ、いい。
ただアーチストの演奏光景が見えないのが難点といえば難点である……。ぜひ、立ち見席と座り席の、両方を用意して頂きたい。主催者の皆様へのお願いだ。あの状態だと私と同じ気持ちの客を確実に逃していますよ(笑)。

クラシック音楽の場合は?許されない…が暗黙の了解

クラシック音楽で演奏中に立つのは御法度である。これは伝統だ。かつてダンスミュージックや食卓ミュージックの性格の音楽も、今はなぜかお行儀良く座席に座り大人しく聞く。

もしも、クラシック音楽で感情を露わにしてもいいとなればどうなるだろう?
想像してみよう。

ストラヴィンスキー「春の祭典」では場内で焚き火を始め、周りを踊り狂う人々が出るだろう。消防法上問題があり、即座に係員が演奏会を中止するに違いない。
シュトラウスの「アンネン・ポルカ」では観客隣同志が手を取り、ぐるぐるまわり踊りしそうだし、歌劇「こうもり」の序曲ではワルツにのりステージに上る輩も出そうだ。熟年カップルたちも踊り狂うだろう。

シューベルトのピアノ五重奏曲「ます」の演奏が始まると、鱒売りの魚行商人が会場に現れ即売会が始まる。主婦や主夫たちが今夜の夜食用に買い走り、演奏どころではなくなる(ついでに佐久の鯉売り人も現れるかも?)。

ベートーヴェン「第九」の第4楽章で「ザイト・ウムシュルンゲン・ミーリーオーネン(百万の人々よ抱き合え)」を歌い出すと、観客全員隣同士で抱き合い場内が異様な光景となり、指揮者が曲を中断するかもしれない。

そう。クラシック音楽はテーマがとてつもなく多岐に渡り、かつスケールが大きいから、聞き手の想像力も大きくなる。常識では考えられない行動に出ることだってある。危険なのだ。クラシックで聴衆が感情を露わにすることが御法度なのもうなずける。

立つのを許される曲 ヘンデル「ハレルヤ」

しかし、演奏が始まれば即座に立ってもよい音楽があるのをご存じだろうか?ある。ヘンデルのオラトリオ「メサイヤ」の「ハレルヤ」だ。
この有名な作品がかつて日本でも祝い事の際に、特に教育の場で演奏されていたことを思い出す人は、私と同年代か?合唱部に所属の私は入学式で毎年歌った(三年の時なんかローカルのテレビ局が取材に来て、超アップの顔をその夜のニュースで放映したそうだ。ああ、おぞましい…)。
曲を聞いた国王があまり感動したため、曲の途中で起立したという逸話は聞いていたけれど、その光景を大学時代に目の当たりにした。大学合唱団が藤沢交響楽団と「メサイヤ」で共演した時のことである。指揮は故福永陽一郎先生。国王が起立したことで、以後、この曲の演奏の際には聴衆も起立する、というのが習慣になっているわけだが、極東の日本でもちゃんと習慣を守る人が大勢ではないが、存在した。驚いた、というより感動した。

私の経験はもう40年ほど前の話だけれど、たぶん現代でも同種の習慣があるだろう。逸話を知らない人は驚くかも知れない。でも、ポップスの時と同じで、習慣を知る個人が、独自の判断で立てばいい。強要されるべきではないし、するべきではない。音楽はあくまでも個人の感性と共に生きるべきだから。

ただ、今から250年以上前の音楽にまつわる習慣が、携帯電話やインターネットなどで情報の蔓延する現代も受け継がれているという事実。伝統を否定することで文化は発展してきたけれど、伝統や習慣だって決して捨てたものではなく、むしろ忘れかけていた大切な何かをもう一度考えさせるきっかけを与えてくれる。あの時の国王は、あまりに感動したから起立したのだ。感動を私たちも共有できるとすれば、ちょっと素敵だ。

晩年「ヘンデル全集」を愛でていたベートーヴェン


ベートーヴェンはモーツァルトを大変尊敬していたらしいが、晩年はヘンデルを最も敬愛した。病床の時、「ヘンデル全集」を贈り物として受け取った後は、ベッドの中でこの偉大な作曲家のスコアを愛おしむように読み調べる(つまり勉強である)ことで、病気から回復後の創作、レクイエム、オラトリオ、交響曲第10番、オペラなどに備えていたという。彼の意欲に限りなかった。

「メサイア」を聴きたくて

「メサイア」を聴きたくてNAXOSから出ている盤(コーラスのみ)を夏に買い求め、聞くに相応しい今の時期に改めて何度も聞いている。聞き慣れた、というより歌い慣れた曲が次から次へと出てきて懐かしさと共に、その豊かな音楽と、前号の話題のようにそれこそワンパターンな発言だが、人間の声に圧倒的感動をさせられている。

「序曲」の厳かな雰囲気から始まり、合唱合唱の連続である。歌が、特に合唱が嫌いな方には苦痛だろう。でも、人間の声の美しさと、ヘンデルの音楽の素晴らしさに少しだけ興味のある方はぜひ聞いて頂きたい。

特に'And He shall purify''Behold the Lamb of Gold''Hallelujah''Amen'が秀逸。バロックというくくり方がされているけれど、ヘンデルの音楽はきっとその後の時代の根幹となっていると思う。原点の音楽は決して古くはなく、むしろ新鮮な感動を私たちに与えてくれるだろう。
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★私の聞いたCD
ヘンデル作 「メサイヤ」
HANDEL The Missiah
合唱:ブラティスラヴァ市合唱団 Bratislava City Choir
管弦楽:カペラ・イストロポリターナ Cappela Istropolitana
指揮:ヤロスラヴ・クレチェック Jaroslav Krechek NAXOS 8.550317
http:www.naxos.co.jp

ヘンデル:「メサイア」合唱曲集
ジョン・エリオット・ガーディナー(指揮)
イギリス・バロック・オーケストラモンテヴェルディ合唱団


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