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マーラーの音楽には死の影が漂わない!

(これは10年ほど前に書いた文章です)

NHKのN響アワーの「マーラー特集」。
「交響曲第10番」と「さすらう若人の歌」(番組では「若人」でなく「若者」で表記)という珍しい組み合わせで、久々に演奏を堪能しました。感謝。

ただ、司会役の会話を聞いていて徐々に苛々し、ついtwitterでぼやいてしまいました。

「マーラーの曲には死の影が漂う」と何度も出演男性(作曲家)が語るからです。一度くらいなら許す(笑)。

マーラー音楽を語る場合、「死」はある意味で常套句ですし、彼自身幼少から家族の死に直面し、自らも健康を損ねて死が隣り合わせの人生を送ってきたことによる、影響はあるでしょう。

私も以前メールマガジンでマーラーの作品を取り上げた際に、そのようなことを書きました。また、「交響曲第10番」はマーラー最後の交響曲であり第1楽章のみで未完に終わっているし、わからぬでもありません。

しかし、初期の「さすらう若人の歌」の音楽にも「死の影が…」と繰り返すのは、あまりにワンパターンではないか?と思うのです。

音楽ですから人それぞれの感想がある。どんな事を感じようと自由です。語るのも自由。しかし、音楽のプロならば、それほど「死の影が…」というからには、具体的にどの部分を聴いて、そう感じるのかをきちんと語るのが筋ではないか、と思うのです。与えられた台本通り語ったのかもしれませんし、氏だけの責任ではありません。

「さすらう若人の歌」はマーラー自ら作詞した失恋の歌です。実体験をそのまま描いたわけではないと思いますが、「失恋」は古今東西よくある話ですから、感傷的になるのは致し方がない。逆に喜びはつらつとした失恋の歌なんてのがあれば、「どーかしたの?」「気が振れた?」と聞きたくなります。

実に女々しい詩ではあります。また、4曲中3曲の曲調が暗いイメージ。失意のどん底で「死んでしまいたい」気持ちが良く表れている。けど、それはマーラー晩年(といっても彼の場合50歳頃)の死生観とはかなり違います。

この作品のメロディが「交響曲第一番」の随所で使われているのは皆さんご承知の通り。しかし「第1番」は活き活きとした命みなぎる交響曲です。そう、マーラーは、失恋の感傷的な心を昇華して躍動感溢れる音楽に仕上げました。

あの頃のマーラーの音楽は決して死生観と隣り合わせであったと、私は思えないし、仮に思える箇所があるとしてもごく一部なのだから、常套句を過度に使うべきではない、これが私の意見です。

作曲家の人生と音楽は重ね合わせて捉えられる傾向はマーラーだけの例ではありません。モーツァルトもベートーヴェンもシューベルトも皆ある種のレッテルがある。

けど、レッテルは後世の評論家たちが勝手に付けたものにすぎず、当然、レッテルからイメージする以外のいろいろな表情が彼らの音楽にはあるはずです。

マーラー音楽=死、という常套句はそろそろ止め、別の観点から彼の音楽を語り分かち合いたい、そう思います。

人様に苦言を呈するだけではなく、私自らが、そうありたい、と思うこの頃であります。


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