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小澤征爾さんと若者たちの共同作業に感動する

以下の文章は、2002年3月22日配信「クラシック音楽夜話 Op.29」に掲載したものをベースに若干編集したものです。
昨日(2024年2月9日)小澤征爾さんの訃報を知りました。ご冥福を祈ると共に、この記事を天国の小澤さんと、すべてのファンの皆様に捧げます。
※タイトル写真は、「そばちょもち」さん撮影の写真です(写真ACより)

教育の本来あるべき姿は、こういうことなのではないか?

火曜の夜(2002年3月19日頃)、久しぶりにまともな時間に帰れたので、テレビをつけると、偶然にも小澤征爾さんの番組が始まる間際だったので、着替えもそこそこでテレビに釘付けになった。

昨年夏(=2001年)に行われたタングルウッド音楽祭のドキュメンタリーで、小澤さんが、世界各国から集まってきた若者で構成されるオーケストラとのリハーサルの様子を映していた。

ご存じの通り、小澤さんは、今年でボストン交響楽団音楽監督を退き、秋からウィーン国立歌劇場の音楽監督となる。東洋人がアメリカのオーケストラの音楽監督を実に30年近くの間続けたのもすごいけれど、それを受け入れた
オーケストラもスゴイと思う。さてウィーンではどんな評価になるだろう。

既にニューイヤーコンサートでの成功や、ウィーン国立歌劇場で上演された
「イェヌーファ」の評判を聞く限り、順風といったところだろう。

若い音楽家たちを惹きつける小澤さん

音楽祭では、世界から集まってきた音楽家の卵たちとバルトークの曲を練習
していた。年齢を感じさせない相変わらず若々しく情熱的な指揮ぶりには
敬服する。若者たちがぐいぐいと小澤さんの世界にのめり込んでいく様子が
よくわかるのだ。

特に、ハンガリー語の一般的アクセントを例に、音楽もハンガリー語の
ように奏でるのだと要求をする場面がおもしろかった。

小澤さんは、学生たちの中にハンガリー語を話せる子がいるかを尋ねる。一人の女の子が手をあげる。そして、何かハンガリー語の単語を話すよう頼む。早い発音だと他国人にはわからない。それを小澤さんは自分を道化にして、何度も頼む。

もう少しゆっくり話してくれないか?と。何度か繰り返した後、ハンガリー
語のアクセントはほとんどが言葉の頭にあることを説明する
。だから、この部分ではアクセントを頭において演奏してみよう!と。

アクセントを頭におく?
どうやって演奏するんだろう?
と演奏家でない私は感じる、、、。

ところが音楽を演奏する彼らはこのアドバイスを聞き、各人がそれぞれの感覚で、自分なりの音を奏でる。それが正しいとか間違っているとかという基準は全くない。でも小澤さんは、それまでの演奏を「これはバルトークの音楽ではないという「感覚」(または信念)」を持っている。その感覚を相手が納得のいくまで、色々な例えで表現し説明する。若者たちは、各人受け止める。

このように双方が今風表現をすると「プレゼンテーション」(提示)をしながら、音楽が作り上げられる。音楽家同士のぶつかり合いだ!

「乾いたドラムの音」「汚い音」(洗練されている音ではなく、もっと感情を露わにしたという意味だと思うが)など、刺激的な言葉が小澤さんから飛び出す。それに次々と応える若者たち。

小澤さんは決して高飛車に出ることはない。なぜなら彼自身も、彼らと共に
いまだに(小澤さんは既に67~68歳だ→2002年の時点)学んでいると、思っているからに他ならない。そして、特に共感を呼ぶのは、小澤さんが必ず実例を示し、わかりやすい指示をする点にある。そこに「対話」があるのだ。

夢のような時間、一時の宝

わずか数日間のタングルウッド音楽祭におけるこれらの経験。世界から集
まってきた各国の若者との交流。きっと参加した彼らは、小澤征爾という
指揮者、そして友たちと過ごした「時」を宝物にして、その後の音楽人生
を送るのだろう。

教育、いや、「学び」とは本来こういうことなのではないだろうか。

小澤さんは、私が初めて彼の指揮でドヴォルザークの「スタバト・マーテル」を演奏した時(1978年)の小澤さんと全く変わってはいなかった。それが嬉しい。

今も青年のような若々しい感覚で、演奏者や聞き手と繋がっている。


(文中、僭越ながら何度も「小澤さん」と記述しました。本来は「小澤先生」とお呼びするべきなのでしょう。けれど、私にとって「小澤さん」は「小澤さん」なのです。初対面以来、一介の合唱団員として接しただけですが、あの親しみのある笑顔を間近で見た思い出は一生忘れないでしょう。)


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