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つなぐ想い
東日本大震災から10年が経ちました。 皆さん、どんな想いで今日を過ごしていますか?? 私は10年前の今日、 一世一代の旅の途中、 初めて降り立った広島県で、 初めて知る原爆の恐怖を目の当たりにした直後に 東日本大震災が起こった現実を知りました。 毎年書くけど。 広島は少しの揺れを感じることもなく、 穏やかな青空が広がり、春の訪れを感じる比較的暖かい日だった事をよく覚えています。 原爆ドーム、平和資料館を後に、 宿泊先のホテルに戻りテレビをつけると それは同じ日本だと思えない 津波に寄って破壊されて行く悍ましい東北の街並みの光景が目に飛び込んで来ます。 何がなんだか分からず、東京のスタッフや 千葉の家族に連絡。 誰とも連絡がつかない。 その時は関東の被害がどれほどのものなのかも知る由もなく、 ただただ私は広島の地で泣きじゃくっていました。 震災の怖さで泣きじゃくっていたのではありません。 その頃の私は、本来いる場所だったところで、 自分の身近な大切な人たちと同じ体験を出来ていない事にとてつもなく孤独を感じて、 1人取り残されたような不安な気持ちに押し潰されそうだったのです。 実際に震災を経験した人の悲しみに比べたら お門違いの悲しみ。 客観的に見ることが出来ればそうだったかもしれません。 でもその頃の私は自分のことでいっぱいいっぱいだったのです。 そんな 震災の怖さを少しも肌で感じていない私が、 あるご縁をきっかけに、 一年後、 震災の事を歌に残せる機会を頂きました。 それが、 「チャリソングプロジェクト~みんなでつくる復興のうた~」 ベネッセさんのcal-feeというサイト内で、チャリティーンズ部という女子高生の団体と一緒に、歌をつくるプロジェクト企画でした。 震災を経験してない私が… 何を歌える?? 何を伝えられる? そもそも何を伝えたいのよ? 何を伝えて説得力があるっていうの?? 何を歌ったって綺麗事ではないか。 その葛藤はずっとあった。 お話を頂いてから被災した高校生に会うまでは。 岩手県大槌町では4人の女子高生に。 そして仙台の女川町で1人の男子高校生に。 会って話を沢山聞けた事によって理解しました。 震災を経験したからこそ前を向き、 未来に向かって力強く歩き出す彼、彼女達。 亡くした友や家族がいて とてつもない悲しみと向き合い続けているからこそ今ある日常を大切に生きる重みを背負ってしっかりと歩いて行く。 あの時守ることの出来た命を抱きしめ、 今一緒に生きる事が出来ている大切な人たちとは 私たちには計り知れない強い絆で結ばれているんだ…… そう感じたのを良く覚えています。 この歌は私の歌ではない。 震災を経験した彼、彼女たちのみんなの言霊を集めたみんなの歌だ。 しっかりと伝えなければ。 そんな使命感が溢れ、責任持って曲にする決意を固めて作詞をし世に出しました。 当時、みんなは落ち込むどころか、 明るい曲が良いと言ったんです。 未来へ向かって行く「想い」の強さを感じた私は、 その一人一人の「想い」を繋げて、 “厳しい現実を受け止めつつ、明るい未来を感じさせる曲” にしたくて作りました。 直接会って話をしたあの子たちも もぅ立派な大人になっている事でしょう。 どんな10年を過ごし、どんな素敵な大人になったのか… みんなが笑ってくれている事を願います。 これからも強い「想い」はつながり続けます。 二度とあの恐怖の1日が起こらないよう願いながら 震災を知らない世代にも東北の皆さんと共に私も曲を通して伝えて行きたいです。 この震災を風化させない為に被災地の写真を撮り続ける人の想い。 まだ家に戻れず彷徨う人たちを探し続ける家族の想い。 震災で朽ち果てた建物を敢えて残し、あの日の現実を語り続けてくれる人の想い。 この10年。 色んな想いが繋がって、悲しみを抱きしめ、強さと優しさで東北の人たちは復興に向けて頑張り続けて来たんだと思います。 そしてこれからもその日常は終わることはなく、この前のように大きな地震が来た時には あの日を思い出し、とてつもない恐怖に襲われる事だと思います。 それでも生きてる限り、 一人一人の想いを繋げて、意識を高め、 あの日を忘れず、万が一の為にしっかりと防災の知識を蓄え対策をしていくしかありません。 僕、私の地域は大丈夫だろう… と奢ることなく! 私たちもしっかりと万が一の時の為に準備をしておく必要がある。 決して他人事ではないから。 今日はいま一度。 改めてこの曲を送ります。 あの日を風化させる事なく、 しっかりと意識を持って伝えていきたい。 あの震災の寒い夜、 離れ離れになってしまった大切な人を想って超えた人たちの想いが、 10年経っても今ここにある事を忘れずに。 つなぐ想い/加賀谷はつみ