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やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 10

第一楽章 シューマンの物語


9、恋のはじまり

「音楽新報」がようやく世に出た同じ春、美しい一人のお嬢さんがヴィーク家にやってきました。
 彼女の名前はエルスティーネ
ボヘミア国境近くのアッシュという街に住む音楽好きのフリッケン男爵のお嬢さんで、ヴィーク先生の新しいお弟子さんです。同じ年頃の女の子の生徒が来てクララは大喜び。優しい性格のエルスティーネは15歳のクララにとっても良いお友達になりました。


エルスティーネ・フォン・フリッケン

「ヘル・シューマンは私の一番好きな人なの、だから、あなたにも好きになって欲しいわ」
クララはさっそく大好きなシューマンをこの新しい友達に紹介します。
「あらそう。でも、私はアッシュに好きな人がいるの」
エルスティネが余り興味を示さないのが、クララには面白くありません。
「ヘル・シューマンは本当に素晴らしい才能の持ち主なのよ」
 と、力を入れます。
 
 ところが、エルスティーネが来てからなぜかシューマンは今までよりも熱心にヴィーク家を訪れるようになり、クララとシューマンのお散歩にも、いつからかエルスティーネが参加するようになりました。3人で居ても、シューマンはエルスティネとばかり話して、クララには冗談を言うくらいです。

「エルスティーネとヘル・シューマンが私の願いどおり仲良くしているのに、どうしてこんなに胸が痛むのかしら」
 クララは自分で自分の気持ちがわかりません。

 そんな娘の心を知ってか知らずか、夏が近づく頃、ヴィーク先生はクララを声楽や作曲の勉強のためにドレスデンに行かせることにしました。

 ライプチヒから離れれば少しは気持ちも切り替わるかと思ったクララですが、反対に心細さもあって、なおいっそうシューマンの事ばかりが頭に浮かび、思いは日増しにふくらむばかりです。
 15歳のクララは、恋を知って少女を卒業し、大人の女性への扉を開けようとしていました。そんな心を知られないよう、クララはなるべく明るい調子でシューマンに手紙を書くのですが、待てど暮らせど返事が来ません。ドレスデンに遊びに来てくれると言う約束も、いつの間にか破られたままです。

 それもそのはず、クララの留守の間にシューマンとエルスティーネは結婚を約束するような仲になっていたのです。
 もともと、素敵な女性と出会うたびに恋をしてしまうシューマンですが、今回は特別真剣です。お医者さんに勧められたように、心や体を休める家庭が欲しいと願うようになっていた彼にとって、気立てが良くて、クララほどではないけれど、音楽の才能もあるエルスティーネはお嫁さんにするにはぴったりです。
「結婚したい女性がいる」とお母さんにも打ち明けるほど、エルスティーネに夢中になっていました。

 エルスティーネもまた、いつしかシューマンに心を惹かれるようになり、二人を応援してくれる、ある夫人の家でひそかにデートを重ねるようになりました。

「これは、ちょっとまずい事になってきたかもしれない」
 ふたりの仲に気づいたヴィーク先生が、エルスティーネのお父さんであるフリッケン男爵に二人が恋人同士になっていることを知らせたのは、その年の夏の終わりです。

「冗談じゃない。先生を信頼して大切な娘を預けたのに、一体どういう事ですか。もう娘をライプチヒに置いておくわけにはいきません」
 と、怒ったフリッケン男爵はエルスティーネを連れてアッシュへ帰ってしまいました。

「父もゆっくり話せばわかってくれると思います。待っていてください」
 エルスティーネはシューマンが贈った指輪を手に、ライプチヒを後にしたのでした。

 エルスティーネと入れ替わるように、その数日後クララは演奏会に出演するためにライプチヒに帰ってきました。
 今回の演奏会では、ショパンの新しい曲とともに、シューマンのピアノ曲「トッカータ」(作品7)を演奏することになっていました。
 それは、シューマンのピアノ曲が初めて演奏会で演奏される記念すべき日になるはずで、クララは、この日のために心を込めてこの曲を練習してきたのです。しかし、肝心のシューマンは心の中はエルスティーネの事でいっぱいで、気もそぞろ。

「ヘル・シューマンはやっぱりエルスティーネの事が好きなのね。二人は結婚するつもりなんだわ。確かに二人はお似合いだもの」
 クララは、沈んだ心を抱えてドレスデンに戻って行きました。

 「アッシュ、ASCH・・・・あの人が住む町の名前・・・」

 一人ライプチヒに残されたシューマンは、愛する人の住む町を思い浮かべているうちに面白い事に気が付きました。

「ASCH・・・・。A・ES・C・H。お、これでメロディができるな。」

アベッグ変奏曲と同じようにA(ラ)ES(ミのフラット)C(ド)H(シ)そしてAS(ラのフラット)と、アルファベットと音の名前を置き換えると、
ただの文字は音になってシューマンの頭の中で踊り始めます。

「いいぞ!それに、この文字は皆ぼくの名前・SCHUMANNシューマンのなかに使われているじゃないか!」

 楽しくなったシューマンは、エルスティーネの事を想いながら、作曲をはじめます。こうして完成したのが「謝肉祭」(作品9)です。「4つの音による可愛い風景」という副題が付けられたこの曲は、21の短い曲で出来ています。
 謝肉祭とは、カーニバルのこと。おめかしをしたり、仮装したりして楽しく過ごす西洋のお祭りです。
 どこの国の人もお祭りは大好きです。
 この「謝肉祭」も楽しいお祭りの始まりを伝える「前口上」という元気の良い曲で幕を開け、祭りに欠かせないピエロやアルカンといった道化師たちに交じって、シューマンの分身・フロレスタンとオイゼビウス、キャリーナ(クララ)、エルスティーネ、そしてシューマンのあこがれショパンやパガニーニと言った人たちが短いけれどしゃれた素敵な曲となって次々登場。
 以前作曲した「蝶々」の一部が突然登場するなど、まさに音楽の「お祭り」です。曲の途中には「スフィンクス」と書かれた曲があって、そこにはこのASCHから作られたモチーフが3つ、謎を解く鍵のようにさりげなく置いてあります。この曲は演奏されないことも多いのですが、そこで
「あら?この曲は皆この音で出来ているのね」
 と、気が付くようになっているのです。


スフィンクス

 どの曲も限られた音を素にしているとはとても思えないほど変化があって、題名を上手に表していますが、「謎」を知れば、もちろんもっと楽しくなります。 
 学生時代、友達を曲で表現するのが得意だったというシューマン。
 キャリーナには「情熱的に」、エステラには「愛情をもって」という注が付いているのも興味深く、クララやエルスティーネもこんな人だったのかな?と思わせてくれるのは、のちの世の私たちにとっても楽しいことです。

 そして最後の曲は「フェリシテ人にたいするダヴィッド同盟の行進曲」。シューマンの大切な仲間たちが、音楽への熱い想いを胸に大行進して、お祭りは華やかに終わりを迎えるのです。

 もう一つ、この恋から生まれた名曲が「交響曲的練習曲」(作品13)です。この曲では、フルートを趣味としていたフリッケン男爵が作曲したシンプルなテーマが、次々と変化されて、とても珍しくまた難しい「練習曲」に仕立てられています。自分の作ったメロディをこんな名曲にしてもらったら、喜んで結婚を許してしまいそうですが、実際はどうだったのでしょうか。

 現代でもピアニストたちの大切なレパートリーになっている名曲を2曲も生んだ恋でしたが、肝心のシューマンとエルスティーネは上手にハーモニーを奏でることができなくなってしまいます。
 離れて過ごすようになると、シューマンは、自分が本当にエルスティーネを愛しているのか、愛されているのか、不安になるばかり。手紙をやり取りしてお互いの心を確かめ、ようやくエルスティーネのお父さんのお許しも頂きましたが、直接会えないのではなかなか話が先に進みません。おそらく、エルスティネも同じような気持ちになったことでしょう。

 そのうち、シューマンは恋に悩んでばかりいる場合ではなくなってしまいました。

 親友のシュンケが亡くなり、一人で「音楽新報」を取り仕切らなければならなくなったのはこの頃です。頼りになるヴィーク先生とクララは演奏旅行に出かけていて留守で、悲しみを忘れるためにシューマンは懸命に働きました。

 そして、ようやく長い冬がおわり、ライプチヒに再び春が巡ってきた頃、ヴィーク父娘が長い演奏旅行から帰ってきました。シューマンはすぐにヴィーク家に駆けつけます。

「お帰りなさい、ヴィーク先生。お話ししたいことが沢山あるんです」

 クララにとっては、夢にまで見た人との再会です。しかし、シューマンは、部屋に入ってきたクララには目もくれません。

「ヘル・シューマンはやはりエルスティーネの事が好きで、私の事など何とも思っていないのだわ。こんなに私はヘル・シューマンのことが好きなのに、どうして見ても下さらないの」

クララの大きな瞳からは今にも涙があふれそうです。

 しかし、シューマンはクララの事を無視していたわけではありませんでした。久しぶりに会ったクララはすっかり大人びていて、もう一緒に遊び、冗談を言ってふざけあった妹のような少女ではありません。恋を知り、ピアニストとしても成長した15歳のクララは、春の女神のように輝いていて、シューマンは驚きのあまりまっすぐに見つめることができなかったのです。そしてその瞬間、シューマンはエルスティーネをはじめ、今まで知り合ったすべての女性が色あせてしまったのを感じたのでした。

 しかし、シューマンとクララはお互いへの想いを胸のうちに隠して友情を取り戻し、何事もなかったように穏やかな日々が流れて行きました。

 才能あふれ、魅力的なクララはいつもシューマンの心を癒し、勇気づけてくれます。年下でありながら、まるでお母さんのようにシューマンの心を包み込んでくれるクララ。

「ひょっとして、クララがぼくのお嫁さんに一番ふさわしいのではないだろうか」
 そう思い始めてしまったシューマンは、これではいけないと、アッシュにエルスティーネを訪ねることにしました。しかし、そこで彼は、エルスティーネが男爵の正式な結婚で生まれた娘ではないという思いがけない事実を知る事になるのです。

「どうして、そんな大切な事を打ち明けてくれなかったのだ。第一、男爵の後ろだて無く、ぼくの収入だけで暮らしてゆくことはできない。やはり彼女との結婚は無理だ」

 シューマンのエルスティーネへの想いは一気に冷め、その代りにクララへの想いがどんどん大きくなってゆきます。
 その「クララへの心の叫び」を曲にしたのが、情熱的でロマンチックな素敵なソナタ(作品11)です。
 シューマンはこの曲を自分の名前ではなく、自分の分身「フロレスタンとオイゼビウス」よりとして、クララにささげました。

「あなたが、私にとってどれくらい大切な人か、あなたにはおわかりでしょう?」
 ツヴィッカウに帰ったシューマンはクララにそんな手紙を書いています。
 受け取ったクララは、何度も手紙を読み返し胸の高鳴りを抑えられずにいました。

「あなたのお手紙を二時間もかけて読んでいますが、すこしばかり頭に入らないところがございます」
 ちょっと洒落たクララの返事を、シューマンはあたたかな気持ちで読み返すのでした。

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