やさしく読める作曲家の物語 シューマンとブラームス 13
第一楽章 シューマンの物語
12、闘い
そんな苦しい日々が一年半続いた頃、とつぜんクララとの共通の友達であるエルネスト・ベッカーがシューマンのもとを訪ねてきました。
「クララが8月13日にライプチヒで演奏会を開くのを知っているかい?
そこで彼女は君の『交響的練習曲』を弾くんだよ」
思いもかけない言葉をシューマンは信じることができません。
「そんな・・・。あり得ない。彼女はぼくの事なんかもうすっかり忘れているに違いないんだ。彼女はあのパンクと結婚するつもりなんだろう?」
「とんでもない。彼女は今でも君の事を愛しているよ。ただ、ヴィーク先生に見張られてどうやって君と連絡して良いかわからないんだ。彼女も悩んでいる。
君の手紙を送り返してきたのも先生に言われて仕方なくやったことなんだよ。できればその手紙をまた返してほしいと言っている」
シューマンが苦しんでいるのと同じようにクララも苦しんでいました。
ヴィーク先生は何とかシューマンを忘れさせようと、この年も長い演奏旅行にクララを連れ出しています。クララはシューマンの曲を練習し、研究することでシューマンへの想いをおさめていました。
こうしている間もシューマンは「音楽新報」に記事を書いていましたが、どんなに良い演奏会を開いてもシューマンはクララの事を記事にしてくれません。
「昔は必ず私の事を書いて下さったのに、やはり私を恨んでいるのかしら」
クララは気が気ではありませんでした。
しかも、新しい作曲の先生であるパンクは、クララの事が好きになったらしくしきりとシューマンの悪口を言います。
シューマンとも親しいパンクは、シューマンには「クララは昔の事を忘れてウキウキしている」などと言うので、怒ったシューマンは「音楽新報」にパンクの事を「ドケチ」などとからかう記事を載せたくらいです。
ただ、ヴィーク先生もクララに親しげに接するパンクに腹を立て、追い出してしまったのでクララもほっとしました。
そして、ライプチヒに帰ってきて数日たったある日、ヴィーク先生は突然
「今度ゲヴァントハウスで演奏会を開くぞ」
と、言いだしたのです。
ライプチヒでの演奏会は2年ぶりです。クララは思い切って
「今度の演奏会ではヘル・シューマンの『交響的練習曲』を弾きたいと思います」
と、言いました。
シューマンの才能や音楽は認めている先生は思いがけずそれを許してくれました。それはクララにとっては勇気のいる、彼女にできる精一杯の愛の告白でもありました。二人の仲をずっと心配してきたベッカーは、それを知って二人のキューピットを務めたのです。
演奏会当日。クララは客席にたくさんのお客さんの中に居るであろうシューマンに向けて心をこめて演奏しました。
そして、終演後、花束と共にシューマンからの手紙が届いたのです。クララは震えるような思いで手紙を開きました。
「苦しみと希望と絶望に満ちた長い沈黙の日々の後に、この手紙は昔ながらの愛情のうちに受け入れられなければなりません。もしもそれがないのならこのままご返送下さい」
「どうしてこんなことを書いてくるのかしら。私はあの方の愛を疑ったことなどないのに」
手紙はクララを言葉に出来ないほど幸せにしてくれました。
「あなたはまだ私をしっかり愛してくださっていますか?あなたの愛を疑ったことはないけれど、世界で一番愛する人から何のご連絡もなければ、どんな強い心も乱れるものです。
望んで行動すればきっと叶うと信じています。
ぼくはあなたのお誕生日にお父様に結婚のお許しを頂く手紙を出します。
それを渡してくださるのなら、『イエス』というお返事を下さい」
クララの答えは勿論「イエス」です。
早速ペンを取って、心を込めてシューマンに返事を書きました。
「運命は二人が再び語り合える事を望んでいます。
私の18歳のお誕生日を神様は悲しい日にするのでしょうか。
いえ、それはあまりに恐ろしい。私も望めばかなうとずっと信じてきました」
こうして、二人の間にはまた手紙が行き交うようになりました。お使いを務めたのは召使のナンニーです。
「9月9日、クララお嬢様はお友達のエミリー・リスト様のお家におでかけになります。その帰り道でシューマンさまにお目にかかりたいそうです」
「ありがとう、ナンニー。では、ぼくがこっそり迎えに行くよ」
その日、夜道で息を殺して待つクララの前に1年8か月ぶりにシューマンが姿を見せました。緊張からか、青白くこわばったシューマンの顔が月明かりに照らされた時、クララは今まで味わったこともないような幸せを感じました。止まっていた二人の時間はまた動きだしたのです。
そして運命の9月13日。
シューマンはヴィーク先生に「是非、クララとの結婚を許して頂きたい。自分はそれにふさわしい人間であるし、クララとも心から愛し合っている」という内容の長い手紙を送りました。
しかし、それを受け取ったヴィーク先生は封を開けることもせず、中に入っているクララあての手紙も渡してはくれません。クララがおそれたように、18歳のお誕生日は涙にくれるものになってしまいました。
その後、シューマンは実際にヴィーク先生に会って、再び結婚のお許しを願いでますが、先生はまったく相手にしてくれません。
「どんな事があっても私の心は変わらないよ。
クララを一生幸せにできるだけのお金でもあれば別だがね。あの子はピアニストになるために生まれてきたようなものだし、私もそのつもりで育ててきたのだ。乳母車を押す姿など見たくもない。今後もクララとは一切会わせないし、手紙をやり取りすることも絶対に許さない」
と、シューマンを突き放すのでした。
しかし、二人の心はもう揺るぎません。長い間会えずにいたことで、二人はお互いがかけがえのないものだという事をより強く感じたのです。ヴィーク先生の眼を盗んで密かに会い、熱烈なラブレターが行き交うようになってゆきました。
燃え盛るような恋の日々、シューマンは心が高まるままに「ダヴィッド同盟舞曲集」(作品6)というピアノ曲を作曲します。この曲にはクララの作曲した「音楽の夜会」の中にあるテーマを使った曲も含まれていて、それぞれの曲はその曲の性格に応じて、元気な曲はフロレスタンのF,内気な曲にはオイゼビウスのEを曲の最後に示してあります。
大切なクララと、自分の分身たちと、ダヴィッド同盟の仲間たちをピアノの上で踊らせて、シューマンはこの時ほどピアノを弾いていて楽しかったことは無いと後に語るほど、この曲が気に入っていました。
それに対してヴィーク先生はまたクララを7か月にも及ぶ大演奏旅行に連れ出すことにしました。旅に出てピアニストとして活躍すれば、シューマンの事など忘れてしまうだろうと思ったのです。シューマンと会えないのは辛いけれど、クララにとってはピアニストとしての成功も捨てることはできなかったのです。
旅立ちの前にゲヴァントハウスでクララは演奏会を開き、立派な演奏をしました。しかし、大勢の人に囲まれるクララをシューマンは遠巻きに見る事しかできません。素晴らしい恋人を持つ誇らしさや喜び、けれどそれを秘密にしなければならない苦しさやもどかしさは、シューマンの心を激しく波立たせるのでした。
勿論、クララも同じ思いです。旅立ちの準備の忙しいなか、それでも恋人たちは会わずにはいられません。
「今度はいつお会いできるかしら」
自分の胸にすがって涙を流すクララをシューマンは心から愛しいと思いますが、シューマンにとってもクララこそが心のよりどころになっていました。
「手紙を書くよ。今度はもう誰にも邪魔はさせない。君も出来るだけ毎日書いてくれるね」
「もちろんです」
「どんなことをしても、1840年には必ず結婚しよう」
「あと3年。きっとそれまでには父を説得します」
二人の指にはお互いにプレゼントしあった指輪が約束のしるしとして光っていました。
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