私が映画『わたしは最悪。』 のユリヤを羨ましく思うのは、ラヴェル《マ・メール・ロワ》が似合うから
彼女のように、優秀で、なんでもできて、いろんなことにときめきながら生きていけたら——映画『わたしは最悪。』の主人公・ユリヤをみて、ふとそう思う。
ユリヤと似ていない私は彼女を羨ましく思うが、それでも彼女が人生の岐路に立たされるたびに真剣に悩む姿をみると、人には人の苦しみがあるものだなと感じる。
ユリヤは医者、カウンセラー、フォトグラファー、書店員と、目指す志を次々と変えて生きている。どの道に進むにしろ、スタートラインに立つには高いハードルが要されるものだが(たとえば医者なら医大に進学する、といったふうに)、まずそれを乗り越えられるのだから、彼女は世間的の尺度に照らし合わせると“優秀”であり、世をうまく渡ることができるタイプだといえる。また、生きる場所を変えるたびにさまざまな男性がどんどん登場するものだから、パートナー選びに飽くこともない。
そんなユリヤが、かなり年上のコミック作家・アクセルと安定した恋人関係を築いたと思いきや、刺激的な若い男性・アイヴィンに出会い、乗り換え、それでもなお自分の道に迷い続ける「夢見心地」なさまが、この映画の肝だといえる。
ユリヤは、心構え次第では満たされた人生を送れるかもしれないのに、さまざまなものを次々と手に入れながらも、いつも満たされていない。
今の状態も悪くはないのだけど、こっちの道を選べばもっと価値のある人生になるのかもしれない。別の道を選べる能力が自分にはあるし、もしその道がダメでも別の道があり、そっちでも案外うまくやるのだろう、でも本当にそれでいいの?――といったふうに。
つまり、彼女はときめき重視の人間なのだ。「これが私の道だ」と思う感度はとても高いが、そうして手に入れた道をじっくり歩み種を育む力が弱い。終盤、別れた後のアクセルが「君は行き詰まると別れる」とユリヤの癖を指摘するシーンがあるが、ユリヤは図星っぽく怒っていた。
この映画の何がおもしろいって、音楽がおもしろい。既存の楽曲が次々と登場する。きっと制作側にはある種の意図や選曲コンセプトがあるのだろうが、こちらからすると節操なく聴こえるくらい、ロック、ジャズ、クラシックと、さまざまな楽曲が耳に入り、まるでユリヤの移り気な生き方をナビゲートするかのよう。
アーティストの例を挙げてみると、ジャズ・ピアニストのアーマッド・ジャマルのトリオに始まり、カリブー(ダン・スナイス)によるエレクトロ・ミュージック『Poly』、と思いきやアメリカのクリストファー・クロスの70年代サウンドを取り入れた『Ride Like the Wind』、そしてビリー・ホリデイによる『The Way You Look Tonight』、あとはハリー・ニルソンの『I Said Goodbye to Me』などなど。ほかにもサイマンデやトッド・ラングレンなど、70年代のロックが多い印象だが、ノルウェーのバンドであるBigbangによる現代の都会的なロック・サウンドが聴けたり、突如としてチル要素の強いR&Bが流れるので油断ならなかったりする。
なかでももっとも驚いたのは、この映画の白眉のシーンに流れたラヴェルの《マ・メール・ロワ Ma Mère l'Oye》だった。
具体的なシーンについて説明したい。元から付き合っていたアクセルとの生活にしっくりこないなかで、ふと紛れ込んだパーティで、新たな男性・アイヴィンに出会い、一度はその場限りで別れるも、後日に奇跡的な再会を果たす。同時にユリヤは、アクセルから子どもを迫られる圧力や、すでに成功している彼への劣等感もあったのだろう。よってアクセルとの生活に限界を感じ、やはりアイヴィンの元に行きたいと思ったユリヤは、彼の勤務するカフェへと一目散に駆ける。そうして夢中でユリヤが爆走するシーン、なぜだかここだけ、世界の時間が止まるのだ。すべての人や物が静止しているなか、動いているのはユリヤとアイヴィンだけ。
止まった時間のなか、2人は夢中になって愛を育む。ハグをし、キスをし、互いについて語り合う。恋にのめり込むと周囲が見えなくなるものだが、まさにそんな状態。いかに没入感の凄まじいことか。
そのバックに流れていたのが、ラヴェルの《マ・メール・ロワMa Mère l'Oye》より〈美女と野獣の対話 Les entretiens de la belle et de la bête〉だったわけだ。
映画ではオーケストラ版で演奏されているが、本来はピアノ連弾のために書かれたもの。ラヴェルが友人夫妻の子どもたちのために作曲した。だから旋律はいたってプレインなのだが、叙情的でエモーショナル。奇しくも、「美女と野獣」という障壁のある2人を描いた音楽に合致している。互いにまだパートナーがいるという並行状態で想いを深め合っているにもかかわらず、おとぎ話のような純朴さがそのシーンを纏ってしまうのだから、ある意味滑稽でもある。
さて、ユリヤはアクセルと別れ、アイヴィンと付き合うことになるが、それによって身が落ち着き「ときめき重視」の特性がおさまるのかといえば、そうではない。それに加えて終盤では、別れたアクセルと哀しい状態で対峙することにもなる。
一見フラフラしているように見えるユリヤ、しかし彼女のなかではフラフラするにも都度真剣に悩んでいるのだから、彼女が選択の岐路に立たされるたびにしっかり共感してしまう。とはいえ、彼女のときめきは他者を傷つけることも厭わない。ときめきを手に入れるためにズルさを発揮する場面もたくさんある(実際、彼女は周囲にいろんな嘘をついている)。それが何度も繰り返されるため、タイトル通り「最悪」なのかもしれないが、それは彼女にとって変え難い生き方であるということでもあろう。
何より私が羨ましいのが、これからもユリヤはさまざまな夢や異性にときめき、そのたびに《マ・メール・ロワ》の〈美女と野獣の対話〉がバックシーンで流れることである。ときめくたびに悩み、人を傷つけるだろう。それでもなお「やっぱりこれでいいのだ」と妥協なく自分の納得できる選択をとれるということは、幸福な人生であることに違わないのだから。
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