The Beatles "It's All Too Much" (1969)
音楽話137: 倦厭
ご挨拶
今年も宜しくお願いいたします。
皆様の2025年・令和7年が良き年となることをお祈り申し上げます。
これまで通り、自分が好きな1曲を不定期に書き殴っていきたいと思います。ジャンル不問、時代不問。広大な音楽の海を泳いで、ほんの少しでも皆様の音楽ライフに新たな発見や気づきに繋がるようなキッカケをご提供できれば、それは望外の喜びです。
世界最大にして最強
2025年最初は、私が愛してやまない、いや、愛しすぎて憎さすらあるThe Beatlesにしました。
小学2年生の時、とあるFMラジオ特番で"Eight Days A Week"を聴き、雷に撃たれて以来病的にのめり込み、沼にハマり続けて40年以上。勿論私より遥かにディープでマニアックに彼らを追究している諸先輩方も数多くいらっしゃるので私はヒヨッコレベルですが、それでも私にとってThe Beatlesはほぼ私そのものと言っていいと思っています(傲慢ですみません!)。
それにしても、世界をこれほど長年夢中にさせ、解散後半世紀以上経っているのに今も未発表音源の発掘や音楽遍歴に関する考察、レコーディングの詳細、楽器解説、楽曲構成のプレーヤー分析、私生活のあれこれなど、永遠と話題に事欠かない音楽は、The Beatlesの他はいないでしょう。過去のどんな音楽的な偉人だろうがグループだろうが、クラシックだろうがポピュラー・ミュージックだろうがジャズだろうがPopsだろうが、彼ら以上にポピュラーになった存在はいません。一般的にライバルと称されるThe Rolling Stonesでさえ、彼らには届きません。The Who?Led Zeppelin?Queen?Michael Jackson?Madonna?Kurt Cobain?すみませんが足元にも及びません。
…誤解ないよう申し上げますが、The Beatles以外を貶しているわけでは決してありません。第一、上で言及した音楽たちはすべて私は大好きです。ただ、The Beatlesの音楽が最も世界中の人々の日常に深く溶け込み、最もごく自然に今日もそこかしこで流れているのは、紛れもない事実です。古今東西、最大にして最強の音楽はThe Beatlesと言って良いと思います。
素直に喜べなかった「新曲」
1980年のJohn Lennon射殺は、70年代まで続いていたロックンロール〜ロックの猛々しい流れの終焉と、MTVという大量消費の音楽再生の到来をある意味象徴してしまいました。Johnが居なくなった時点でThe Beatles再結成は無くなりましたし、再び世の中を驚かすことはないはず、でした。
しかし95年、彼らはドキュメンタリー「The Beatles Anthology」を制作、そのサントラ的なアルバムを3枚リリースしました。驚きは未発表曲だけではなく、新曲"Free As A bird"と”Real Love"が入っていたことでした。
この2曲はともに、JohnがThe Beatles解散後に制作したもので未発表曲、しかも元音源はデモです。そこに残りの3人が、Jeff Lyneプロデュースの下オーヴァーダブして、The Beatlesとしてリリースしたのです。時空を超えた共演として大多数の方は喜びましたが、私の気持ちは複雑でした。
「『これから休暇に行くから、このデモテイク、皆で形にしといてくれよ』ってJohnに言われた感じで取り組んだんだ」とPaulは回想していますが、それはあまりに都合が良過ぎる気がしたし、彼らの音楽的な偉業・威厳・影響力を維持するために、あえてJohnのボツ曲を取り上げてThe Beatlesの新曲としてリリースしたのではないか?これがOKならなんでもアリじゃないか、と思えたのです。
2001年のGeorge Harrisonの死去は、The Beatlesという存在が20世紀で完全に終わったことを表しているようにも思えました。これ以上のサプライズはきっとないだろう、と。しかし2024年、「The Beatles Anthology」プロジェクトで一旦取り組むもボツになった最後の1曲"Now And Then"が「最後の新曲」としてリリースされ、2025年2月のグラミー賞にノミネートされるまでになっています。JohnどころかGeorgeもいないのに、です。
公式には「"Now And Then"のJohnのデモ音源は、ヴォーカル部分の酷いノイズを1990年代当時の技術では完全に取り除くことができず、リリースを断念せざるを得なかった。しかし現代AIの発達によってそれが可能になったため、95年の取り組みを踏襲し、PaulとRingoの再レコーディングを経て、遂にリリース可能な状態になった」と言っています。
私は、これらの取り組みを今も素直に喜べません。じゃあ聴かなきゃいいじゃないかと言われそうですが、前述の通り、烏滸がましくも私にとってThe Beatlesは私そのもので、メンバー全員の総意ではない形での「新曲」を額面通りに受け取ることにどうしても抵抗があります。この偏屈、どうかお許しください。
PaulとRingoはもう80代半ば。Johnの代理人=奥さんのYoko Onoは90過ぎ(老人ホームにいるんだとか)。特にYoko存命のうちに早めに”Now And Then"リリースの承諾を得る必要があったのは?と勘繰ってしまいますし、その他のThe Beatlesプロジェクト(各メンバーの伝記的なドラマ制作が現在進行中)の制作許諾と監修も、彼らが生きているうちに済ませたいはず。Life is very short, and there's no time for fussing and fighting, my friend、なわけです。
神格化され過ぎたクズたち
つまりThe Beatlesは、本人たちの意思以上に巨大に膨れ上がったプロジェクト、バケモノとなって今も生きている。その流れを当のメンバー本人たちは最早止めることもできないでしょう。そのまま寝かせておけばよいものを、なぜここまで延命させて形を変え世に出し続けなければならないのか。名誉のため?後世に語り継いでもらいたいため?著作権更新による経済収益確保のため?…恐らくその全てだとは思いますが。
あえて言わせてください。The Beatlesとは、クズの集まりです。
PaulもRingoも、Yokoも、Georgeの代理人=奥さんのOliviaと息子Dahniも、その周囲の関係者も、全員クズです。過去の遺産に延々としがみついて新たなネタ、しかも普通ならリリースする必要のないデモ音源や失敗テイクを提供し続け、その延命とそこで生じる経済効果を確保せんとするーーーもうこれは音楽ではなく、宗教と言ってもいい。
神格化され過ぎた存在は、そのコアな構成要素が欠けても、あたかもまだ生きているかのように継続される。「The Beatlesの再結成なんて、誰が望んでいるんだい?そんなの必要ないだろ?大切なのは今この瞬間なんだ、これが俺が望んでいたものなんだ」と、1975年頃に自身のバンドWingsが全盛期だったPaulの言葉は、今は有名無実化しています。88年にRock and Roll Hall of Fameを受賞した際、Paul、George、Ringo、Yokoが集まった奇跡的な場面で「受賞を誇りに思う」「Johnも皮肉のひとつでも言いながらきっと喜んでいるだろう」程度の表層的なコメントだった彼らはその後、The Beatlesの再発掘と再生を手掛けることになりました。
「クズ」と言いましたが、悪意はありません。「自身の名声もあるだろうけど、いろんな事情があってThe Beatlesを結局続けなければならないってことだろ?もう誰にも止められないし、彼らが招いた結果なんだから仕方ない」程度の意味合い、なんだかなぁ的な意味で言ってます。所詮、英国リヴァプール出身の悪ガキたちが集まって起こした奇跡がThe Beatlesです、全てがクリーンでピュアでドリーミーなわけがありません。
ついでに、私が気持ち悪いなぁと思っていることがもうひとつ。それは「世界中がメンバー全員をまるで聖人のように崇めていること」。特にJohnに対するそれがあまりに酷い。
ハッキリ言いますが、Johnはクズな乱暴者、Paulはプライドの高いスノッブ、Georgeは自分勝手で陰湿、Ringoは能天気なご都合主義ーーーこれが実態だと私は思っています。冒涜と捉えようが、誹謗中傷と取ろうが、どうぞご自由に。でもだからこそ、彼らの音楽的才能は大きく花開き、誰もが知る音楽を創ったのです。確かに偉大ではありますが、神聖なる者たちではありません。
彼らは人間です、聖人ではありません。そもそもThe Beatlesの頃の彼ら、全員20代です。まだ駆け出しの若者、良いところもあれば悪いところもある。いや、人間的に欠陥だらけでもおかしくないじゃないですか。
だから聖人化される彼らを見ると、とても悲しくなります。もっと人間らしい彼らに目を向けてほしいと思ってしまう。崇めるのではなく普通の人間として彼らを認識してほしいなぁなんて、(偉そうに)考えてしまいます。
Georgeにしては珍しく
嗚呼私、彼らのことになると一事が万事、ご覧のように長〜〜〜く、変に熱くなってしまうものでして…本当に申し訳ございません。
"It's All Too Much"は1969年リリースのアルバム「Yellow Submarine」収録。元々は67年「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」リリース後に制作され、68年公開のアニメ映画「Yellow Submarine」に提供されたGeorgeの作品。強烈なフィードバックを伴うギターとエコー深めなハモンドオルガン、派手なドラミング、あえて音程を外すベースラインなど、ギラギラでサイケデリック、アシッド色が濃いサウンド。当時LSDにハマったGeorgeが書いた、要はドラッグソングです。
(一応ドラムスはRingoとなってますが、こんなに派手でドカスカするドラミング、実はPaulじゃないの?と思ってます私。ギターがJohnというのも怪しい気が…)
歌詞はGeorgeらしい、インド精神世界の影響を強く感じるもの。"Within You, Without You", "The Inner Light"など、シタールを使ったインド音楽そのものと近い世界観ですが、この曲はバンドサウンドでギャンギャン、ウワンウワンいわせてて、いわゆるラーガロックとは異なる趣。ハモンドオルガンがどことなくインド音楽を感じさせる音色と言えなくもないけど。いずれにせよ、Georgeにしてはとても派手な曲です。
ほんとに「素晴らし過ぎる」?
歌詞の和訳では多くの方が"It's all too much"を「素晴らし過ぎる」と訳しているのを見掛けます。人との精神的な繋がりへの称賛、至上の喜びだと歌っているとする見解ですが、私は解釈が異なります。
当時、彼らは絶頂でした。アルバム「Sgt.〜」は過去最高の評価を得て、66年にライヴ活動を辞めて楽曲制作に全振りした結果を最高の形で肯定することができました。しかし同時に、彼らは自身の成功とこれからの人生の目標、The Beatlesのメンバーとしての顔と私生活のバランスなどが揺らぎ始めてもいました。どこまでも追いかけてくるThe Beatlesのパブリック・イメージ、期待感、固定観念。それに対し、もっと先へと進化し続けていた自我や前衛的な芸術性への追求心とのギャップ。もう何もかも投げ捨てたい、自由にしてくれー何かに救いを求めたい気持ちが芽生えるのは自然なことで、それを紛らわすためにドラッグに溺れ、内なる世界で妄想する…
だから、"It's all too much"は「素晴らし過ぎる」ではなく、「もうたくさんだ」と私には聴こえてきます。
自分がやりたいことをやりたいのに、既存のバンドの枠組みが邪魔になりだした…まさに「The Beatlesの終わりの始まり」は、本当はこの辺りから始まっていたように思えます(一般的には、彼らの終焉は66年のライヴ活動停止から緩やかに始まったとされています)。
楽曲自体は愛の普遍性や人生観を歌ってはいますが、(ドラッグでハイになりながら)どこか虚しく、少し諦めに似た空気を醸し出しているような気がするのですが、皆様はどう思いますか?
この楽曲制作後、ドラッグで荒れた生活とメンタルを改善しようと、インド精神世界に救いを求める彼ら。しかしその過程で汚い人間の本性を見てしまい、落胆して実生活に戻っていったわけですが、インド精神世界の影響は良い意味で彼らを達観させ、以前のような荒れた状態からは多少脱することができました。
そして達観した視点によって、The Beatlesは単なるバンドではなくなります。プロジェクトのように捉え、音楽だけでなく映像やイベント、デザインなども扱う商社のような位置付けーーーつまりバンドを会社化=彼らのレーベルApple Corpsが誕生するに至るのです。そして大量の会社業務が彼らをさらに疲弊させることになるのですが…。
この曲は、彼らが達観する直前期の苦しみ、諦めについて半ばヤケクソ気味に嘆いたもの、と捉えることもできると、私は思います。
ん?もうたくさんだって?ハイ失礼しました…。
"It's All Too Much" 意訳
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