関 周

せき あまね Amane Seki 1962年10月8日生まれ。東京都北区でピアノバー【ミュージカンテあまね】を2003年より経営、2019年に「パパの作りばなし」で歌手デビュー。高島平バスケットボールMet'sの「あまねコーチ」。山口県山口市出身。

関 周

せき あまね Amane Seki 1962年10月8日生まれ。東京都北区でピアノバー【ミュージカンテあまね】を2003年より経営、2019年に「パパの作りばなし」で歌手デビュー。高島平バスケットボールMet'sの「あまねコーチ」。山口県山口市出身。

最近の記事

小学生のタップ

バスケで「タップ練習」というのがある。簡単に言うと、選手が一列になり、一人ずつバックボードにボールを当て、次々に落とさずボールを繋いでいく、バスケ経験者なら一度はやっただろうし、応援に行ったことがある人は、試合前のアップで、ジャンプしながら片手で華麗に繋いでいく光景を見たかもしれない。 🏀 「タップをやろう」とヘッドコーチが言った。まだボールを持って数ヶ月の小学校低学年中心のチーム、その日は12名が練習に参加していた。もちろんジャンプしながらの本格的なタップは無理、一人が

    • 新一年生

      縁あって東京の北の方でバスケットボールを教えている。正式には去年4月からで、およそ1年になるが、去年はまだコロナ禍で練習が少なく、フルで出来るようになったのはごく最近のことである。 小学校を開放して行われるバスケットボールの教室は、通常よくあるミニバスチームの練習、大会に出て優勝を狙う練習ではなく、バスケットボールに親しむ練習、週末、土日の3時間、参加は自由である。 主宰しているコーチは、前任者から引き継いで10年、毎回工夫した練習メニューで子供達を楽しませていた。僕は主

      • 水商売の道

        何歳のときか忘れたけど、家族で早起きして初日の出を見に、山に登った記憶がある。どこの山か忘れた。数年続いたはずだが、いつ止め、なぜ止めたのかも知らない。 父も母も厳しかった。特に母は、自分が小学校の教師だったこともあり、低学年の頃から算数のドリルをしつこくやらせた。毎日、日記を書き、交換した。 お陰でまあまあ学校の成績はよく、中学はエスカレーターで、高校は、一番の親友が山口高校の理数科に行くというので、じゃ、僕もと合わせた。 ☆ 山口大学に勤めていた父は直接は厳しくな

        • 白いピアノよ

          その白いピアノは、父の入院している病院のロビーに置かれていた。 父は8月下旬に脳出血で倒れ、近くの病院からリハビリテーション専門のこの病院に転移して来たのである。父に付き添って病院のロビーに入り、まず目に飛び込んできたのが、この白いピアノであった。 病院にピアノがあるのは珍しいことではない。時々ピアニストが院内コンサートを開いているのはよくある話だが、何しろ今はコロナ禍である。この白いピアノも、蓋の前に椅子がずらっと置かれていて、いかにも弾くのはNGのようだった。 入院

          父叫ぶ

          すっかり行きつけになった大学附属病院に今日も行った。 オムツに尿取りパッドの補充、ついでに転院時に必要なパジャマをナースステーションまで届けた。来週転院。 看護師が「お父様が気にされていることがあるんです」と言う。 「何ですか?」と尋ねたら、「文献を大学に送って欲しい」との事、看護師は「お父様と息子さんは別々に暮らしているので、わからないと思うのですが」と言ったが、ああ、あれね。 机の上に置いてある源氏物語の論文のことだろう。 気の利く看護師だった。 「ちょうどお父様、お

          父倒れる

          8月の終わりなのに暑い日のこと、夕方スマホが鳴った。見たら父の名前で、その時点で既に覚悟をした。出たらやはり父でなく男性の声、「赤羽消防隊の者ですが、関一雄さんのご家族の方ですか?」「はい、息子です」「お父様が倒れました」 父との連絡は常にメールで、電話を使うことは殆どなかった。一緒に出かける時マンションの下まで車で迎えに行き、「着いたから降りてきてください」と、こちらから父に電話をする程度である。それも年数回。 倒れたのは、そのマンションの自分の部屋の前、動けなくなって

          父倒れる

          900文字の歌

          駐車場の隅に咲いた黄色い花が、 踏まれて惨めな姿になっていた。 どうしてなのと訴えてみたけど、 それはしょうがないと敷地の方。 そこは大金持ちの方の持つ敷地、 お世話になっている人々も多い。 踏まれて死にそうになった花が、 笑いながら僕に話しかけてきた。 あなたがここに車を停めたのよ、 痛かったけど私はそれでいいの。 🌼 どうせ私達なんて踏んづけられ、 それならまだしも引き抜かれて。 でなければ栄養沢山与えられて、 ちょん切られて売られていくの。 あなたの車に踏まれて良

          900文字の歌

          最高シュート

          「あ、コーチ!」 「どうやって帰るの?」 バスケットボールの練習を終えて、駐車場に向かおうと道路を歩いていたら、自転車に乗った坊主頭の子が通り過ぎたので声をかけたら、振り返ってそう尋ねた。 「車だよ」 4月から、ミニバスのコーチをしている。坊主頭の子は、そこの部員だ。三兄弟の一番上、妹、弟も練習に来ている。 「え?」 「車なの?」 「それじゃ、お金、大変じゃん」 びっくりした。 それ、小学生が言うことなの? ♫ ミニバス、「高島平バスケットボールMet's」にコー

          最高シュート

          突然の別れ

          今朝、妻を車で仕事に送った帰り道、桜の散った石神井川が急に見たくなった。なんでもない、いつも通りになった景色をしばらく眺めた。そして家に帰ったところで訃報が届いた。ふるさと山口の同級生がまたひとり、この世を去った。 彼とは中学で同じバスケ部、入部時、お互い背が小さく、そのせいかすぐに仲良くなった。彼の家に泊まりに行ったこともある。いつも笑っていて優しかった。 40歳を越えたあたりから、同級生が集まるようになり、彼とも20数年ぶりに再会した。少し太ってメガネをかけていたが、

          突然の別れ

          一枚の扉

          「隣がおかしいのよ」 妻が言った。 小さな家に住んで長くなった。マンションとは言い難い、鉄骨造りの3階建ての1室が我が家である。2004年2月に借りた。 それまでは店で暮らしていた。2003年5月20日に開業した「ミュージカンテあまね」が住居だった。契約では違反なのだろうが、それとなく大家さんは察していたようで、見逃していたのだと思う。 その頃の僕は荷物がほとんどなかった。多店舗経営に行き詰まり、精算して身を軽くし、再起をかけての出店だったから、着るものさえあれば良かっ

          一枚の扉

          出逢いからレコーディングまで

          彼女を見たのは2年前、代田橋のLIVE HOUSE FEVERだった。うちの店 (ミュージカンテあまね) に出入りしていた小林君 (ギターマガジン編集D) が主催したライブにゲスト出演、華奢な体に大きなアコギを抱えて歌う姿に、ひょっとして彼女と縁があるかも知れないと思った。理由はない。 その後、小林君の友人のロマンチック☆安田君 (爆弾ジョニー) が彼女をうちに連れてきて、木綿のハンカチーフを安田君のピアノで歌ったり、うちでの忘年会で、札幌出身の同郷仲間と呑んだりとはあった

          出逢いからレコーディングまで

          シクラメン事件簿

          今年に入ってシクラメンを頂いた。 うちの店、ミュージカンテあまねの少し先、道路を渡って十条駅方面に歩くとアンフィニという花店がある。そこを通ったうちのお客様が「安くなっていたのよ」と買って届けてくださった。その後、花店の主人と会うことがあり、その話をしたら「年を越すとシクラメンは誰も買わなくなる」と教えてくれた。 ある時まで毎年シクラメンを頂いていた。故郷の中学の同級生が冬の贈り物としてシクラメンを大量に買い、親しい友達に届けるのが恒例になっていたのだ。彼は難病を患ってい

          シクラメン事件簿

          ぴいぴいぴい〜訪販回顧録〜

          今日、住宅街を自転車で走っていたら、清潔な明るい色の作業服を着た2人が、大きな声で話をしていた。若い方が上司らしく、白髪混じりの、人の良さそうな中年男性の部下に、「こうこう言われた時は、こう突っ込んで」「こうこう言われたら、わからないので上司に相談と言って」など教えている。住宅街で辺りに丸聞こえなのになと、心の中で笑いながら通り過ぎた。 昭和の後半、訪問販売の会社にいたことがある。住宅街を回り、当時主流だった電電公社のダイヤル式の黒電話、親子電話から、プッシュ式のホームテレ

          ぴいぴいぴい〜訪販回顧録〜