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金銭で全てを買える世界は正しいか キューバの日々
経済の専門家でも何でもないのだけれども、もう何年もこのテーマについて考えている。正しいという言葉より、社会全体として考えたとき、より適切な方向に進むか、幸福度が上がるか、という表現が合っているかもしれない。
きっかけは、バックパッカーでキューバに滞在したときの経験だ。当時はインターネットもそれ程普及しておらず、何かを事前に予約するということが難しく、キューバ人の善意に頼って、あちこちの家に泊りながら、田舎の街々を歩き回った。
その頃はまだ、キューバは二重通貨制で、外国人観光客が使う貨幣と、キューバ国民が使う貨幣に分かれていた。両者は常に両替可能なのだが、そのサービスの対象によって、表記される通貨が違っていた。
観光客用のレストランと地元民のレストラン、観光客用のバスと市民の足となるバス、観光客向けの食料品店と地元民の食料入手経路、という具合に使い分けられていた。体感的に、この2つの通貨の価値は、物やサービスによっては、10倍近い差があったように記憶している。小綺麗な外国人向けレストランで食事をする何分の1かの値段で、キューバ人向けの食事が食べられるようなイメージだった。
外国人がキューバ国民用の通貨を使ってはいけないというルールはなく、滞在後半は、キューバ国民の通貨でも支払っていた記憶がある。キューバの人々も、外国人用の通貨を、割と日常的に使っていたように思う。観光産業が要なので、外国人からお金を受け取る都合上、必然的にそうなっていたのだと思う。よく混乱しないものだと思ったが、事実色々と面倒だったようだ。(二重通貨は数年前に廃止された)
小さな街に滞在中、こう言われたのを覚えている。キューバでは入手に時間のかかるものが多いので、夕食に食べたいものがあれば早めに言ってね、入手出来るかわからないから、と。私は贅沢とは無縁の食生活なので、本当に何でもよかったのだけれども、魚が手に入ったよと、腕を振って料理してくれたこともあった。
そもそも共産主義国キューバでは、食料は配給制なのだが、田舎の方では皆、鶏を沢山飼ったり釣りをしたりしながら、自給している食料も多かった。日本にあるような食料品店は皆無で、食料入手は友人知人から、というのが田舎の基本生活だった。(首都ハバナだけは違い、高額な食料品店が並んでいた)
つまり、お金だけ持っていても、そもそも物が存在しないために、金銭で買えないものがいくらでもある。物資も乏しく、古い機械や乗り物は、修理に修理を重ね、使い続ける。故障は日常茶飯時で、田舎の方は、馬が主要交通を担っているところもあった。
キューバの小さな街では、入手経路を持っているかどうかが、目的の品物を手に入れられるかどうかの、重要な要素だった。コミュニティを通じて、何かを譲り受けたり、紹介したり、協力したり、共同で使ったり、知恵を交換し合う。それが日常だった。キューバは複雑な国だから、と笑いながら話すのを何度も聞いた。ひょっとして日本の1950年代頃も、こんな感じだったのだろうか。
一方、物は豊富で、あらゆることが対価を払うサービスとなり得る、現代資本主義社会。世界の広範に受け入れられ、快適そのもの。と言い切れるかどうかは、確信が持てない。「金銭で全てを買える」ということの、行き着くところはどこなのだろう。
金銭さえあれば、必要以上に買い占めて、価格を吊り上げることも出来る、広大な土地を購入し、周囲のことはお構いなしに、好き勝手使用することも出来る、買収し合って、大勢の従業員の人生を操作することも可能。突き詰めると、こういった倫理的な問題が出てきてしまう。これだけの権力を、お金だけに持たせるのは、恐ろしい気がする。金銭で全てを買える世界とは、お金の独裁とも思える。
昔は買うものではなく、分け合っていたもの、共有していたもの、共同作業で成り立っていたようなものも、今では金銭で買うべきものとなった。特に都市部では顕著だ。それは協力し合うコミュニティというものが、もはや存在しないので、外部のサービスを買わざるを得ないからだ。
外部から買ったサービスに対しては、遠慮は不要であり、自分の欲しい部分だけを受け取れる。効率的で気楽である。コミュニティに属せば、当然面倒な状況に巻き込まれることもある訳で、不愉快な思いもする。何かの拍子に生じた食い違いに妥協点を見つけ、意見を擦り合わせるのに、時間を費やす必要がある。やりたくもない仕事を割り当てられるかもしれない。これらは全て無償でしなくてはならない。
金銭で全てを買える社会は、無駄がなく、効率よく、余計な感情を使わずに済むというメリットがある。個人が独立して、独力で生活を築き、他人の世話を借りずに生きることが可能となる。つまり個で生きることを尊重される、或いは、強いられる。
キューバに滞在した日々、一人でいる時間は驚くほど少なかった。外国人のソロバックパッカーにも関わらず、一日中誰かと喋っていた記憶がある。これはラテンアメリカ圏の人懐っこさであったり、観光産業がメインの国だからということもあるだろうが、おそらく物に対しても人に対しても、境界線が曖昧で、所有するという感覚が違うのだ、薄いのだ。とりあえず、今その場に一緒にいる人と共有してしまう。物も、乗り物も、時間も、空間も、情報も共有する。
誰も知り合いがいない土地で、その日の泊まる場所が決まっていなくとも、不安を感じずに過ごせるのだ。これは来月再来月家賃が払えるだろうかという、日本の暮らしから比べると、想像もつかない安心感だ。
あらゆるインフラが不安定で、経済状況も悪く、国外へ逃れる人も多いキューバ、個で生きるのは難しい。必然的にコミュニティが濃くなる。生活を送る上で、コミュニティは不可欠と言っても良い。コミュニティから外れると生きていけなくなるのを皆分かっているので、割と誰でも受け入れる。寛容なのである。
そしてコミュニティの中で、金銭とは別の経済圏が出来上がっていたように思う。必要なものを入手するためには、信頼のおける人間関係や繋がりがものを言い、それは相互扶助のようなものだ。分け合う人は、分け与えられる。誰かが独り勝ちするという状況にならない。
金銭で全てを買える訳ではない社会では、生きる上で役立つ能力も変わってくる。それは全体の調和のために働き、時にはお節介を焼き、協力関係を築ける能力。もし必要以上に何かを得たら、自分の将来のために保存するのではなく、今隣にいる仲間と分配するという生き方。
本来人間は、ひとりだけ生き残っても、結局のところ子孫も残せず、生きてはいけないという環境だったはずだ。だからコミュニティ内での分配は最優先されたはずだ。周りが生きていけるということが、自分自身も生きていけるということだったはずだ。
お金で全てを買える社会では、コミュニティでの分配は必要ない。個人の資産として保存される。有難いことに、保存しているだけで、利子や配当やらを貰えるシステムまである。賢く運用すれば誰の助けも借りず、生きてゆける。もはや個人の生存に、周りの生存は関係ない。お金の持つ、必要以上の保存能力は、時に厄介だと思う。
ラテンアメリカの国々は、概してお金を貯めない人々が多いと思う。理由のひとつは、極端なインフレなど、そもそも通貨価値が非常に不安定で、自国の通貨にそこまで信頼を置いていないことにある。だから例え臨時収入があったとしても、気前良く使い切ってしまう。つまり、貨幣のもつ保存機能が、そこまで役割を果たしていない。
個々の未来に備えて保存されるのと、入手後すぐ交換手段として使用されるのと、お金の本領が発揮出来るのはどちらだろう。他人に無関心になりやすいのが前者で、人間同士の関係が密になりやすいのが後者だ。
そう考えると、お金で全てを買える社会は個が加速し、ますます個人財産の獲得に励まざるを得ないように思う。自分の生活は全て自分の財で支えなくてはならないし、コミュニティを離れた人間は、それが提供してくれた支援を、別の何かに頼ることになる。生きていくのに必要な金額は、増える一方だ。
おそらく、一度個の快適さを覚えた人々が、再びコミュニティを形成するのは難しいのではないか。共同体で生きるということは、相手から何かを受け取る以前に、自ら何かを差し出すという姿勢が必要になるが、現代人にこの考えは理解不能だと思う。なぜなら、少し検索しただけでも溢れ返っているからだ、いかに富を築くか、いかに良い仕事に就くか、いかに素晴らしいパートナーを獲得するか、自分自身がいかに得をするかという情報だらけだ。どうやって人と分け合うか、どうやって誰かの助けになるか、どうやって社会に貢献するか、こういった情報は本当に少ない。
お金で全てを買える世界では、この瞬間を共にする大勢ではなく、個人の生存に焦点を当てた生き方にならざるを得ない。このやり方に違和感を感じる人は、少数派ではないはずだ。コミュニティを離れた人間がどう生きるかは、まだ実験段階ではないかと思う。よく言われるように、飢えのために自殺する人はいないが、孤独にために自殺する人は数知れない。人間は共同体に属する生き方を捨て切れるのだろうか。100年後には、ある程度の答えが出るのかもしれない。