植物爆弾投下10秒前。
なにを書こうかな。と思いながら書き始めるんだけど、こうして書きながら自分の日常の由無し事を整理しているんだと思う。というわけで、今日もよかったらお付き合いください。
ゴールデンウィーク以降、植物収集欲が止まらなくなってしまい、しかも自分で育てるだけではなくちょっと出来ごごろで販売まで始めてしまったので始末に悪い。いつも自分の家に植物を置くときは、鉢との組み合わせまでこだわって植えていたので、その要領で仕立てたものをちょっとフリマアプリに出したらあっという間にいくつか売れた。そこから調子に乗ってまたいくつか追加で販売したらまたそれもすぐに売れた。嬉しい。
もちろん植え替える手間とか考えたらそんなにたくさんは出来ないんだけど、最近ほとんど家で過ごしていて人との交流もなかったので、こういう形でもなんらかの動きが生まれたのが楽しいのだ。あとハンドメイドの小物などとは違ってあまり自分の欲が出ないこともストレスにならなくていい。以前ハンドメイド品を販売していた時は、売れると「自分が認められた」ような錯覚に陥っていて、逆に売れないと「自分には価値がないんだ」という妄想が始まっていたように思う。こうやって書くと病気なんだけど、そんな自覚もなく承認欲求のお化けだったのだと思うと恥ずかしい。
近所のガーデンセンターに行くと、ちょっと手をかけたら可愛くなるであろう植物たちが格安で売られているので、それらを買い求め、これまた大きなホームセンターで買い揃えたかわいい鉢に植える。鉢の柄やデザインと、植物のもともと持ってる造形を考慮しながら植物たちがポテンシャルを発揮できるように選んで、植える。ガーデンセンターの植物たちは、格安なのだがその分あまり手入れされていなかったり、売れるまで時間が経って葉が伸び放題だったりするので、その粗野な感じだった植物たちに、少し手を加えるだけで断然可愛くなるのが本当に面白い。
しかも保管している間も在庫って感覚もなくて、しかるべき時に旅立つのだろうなと思っていられる。結局気に入りすぎて販売ではなく自宅用にしてしまうこともある(笑)。そんなところも含めて楽しい趣味だ。
今まで旅立っていった植物たち。次の場所でもどうか元気で。
植物を育てるようになってから、育て方のコツは、人との距離感とも通じる部分があると思うようになった。相手の様子をよく観察して、水をあげたり剪定したり、植え替えたりする。無理に相手をどうにかしようとするのは本当に無駄なことで、育つのも時には枯れることも彼らの選択なので私にはどうしようもない。だけど見守りつつ、温度管理や日当たりなど適切な補助は出来る。だけどあくまで成長するのは彼らの選択なのだ。
そういいつつもうまく根付いてくれたり、時折すごい速さで成長していくのを見ていると、なんだか自分のことのように嬉しい。
ここまで書いて、私には愛する対象が必要なのだなと思う。それはとても情けないことだけど、自分の愛を受け取ってもらえることがとても嬉しいのだと思う。人であれ、何であれ。
そういうちょっとした交流ののち、植物たちは旅立っていく。自分の喜びの結果が、また誰かの手元に届く。それを誰かが育ったり、部屋の中で眺めたりして楽しむ。いい連鎖だなと思う。
最近、少しずつだけど飲食店やカフェも営業を再開しているのだけど、久しぶりに行ってみたらなんだか自宅の方が落ち着くようになってしまっていて困った(笑)。以前は作業場のようにして空いている日は何時間もいられたんだけど、早々に終わらせて帰宅した。(感染症のことを考慮すると、注文しさっさと食べさっさと帰るいい客なのかもしれない)多分だけど、植物を豊富に置くようになったので、その生命力の溢れる空間に安らぎを感じているのだと思う。だがしかし、カフェのおやつや飲み物は好きだし閉店されたら嫌なので、テイクアウトしたり以前とは違った楽しみ方にしていこうかなと思う。久しぶりにスタバに行ったら店員さんがメッセージを書いてくれて、そういうのもまた嬉しくなってしまうのだ。
これを書きながら何度目だかわからないけど、自宅が落ち着く空間だということは本当にありがたいことだと思う。
私は子供の頃、自宅がまったく安らげない空間だったので、いつも緊張していて通学中の行き帰りの電車の中が自分の時間だった。友達に借りた漫画を読んだり、あるいは買ってきた小説を読んだり、静かに考え事をしたり。そういうことをゆっくりできる場所が私の実家には存在しなかった。というか、そういうことをする人間が周りにいなかったので、一人になりたいという欲求が理解されなかったのかも知れない。私は絵を描くことも文章を書くことも好きだったんだけど、そういうのを母親は「お前は自己顕示したいだけだ」と内心馬鹿にしていたように思うし、家族に絵を見せれば「これは表現として正しくない」と祖母の扮する赤ペン先生が登場する。そしてありがちな「小中学生に先生が描かせたい上手な絵」の指導が入る。子供の成長を見守りたいのではなく、ひたすら自分たちの思惑や都合を優先して操作しようとする。そのくせ自分たちは子供に愛情をかけているいい親だ、感謝しろ、そう言って洗脳を仕掛けてくる。そういう糞みたいな家だった。
「糞だった」という事実を認めるに至り、私は随分と楽になった。やっと自分と自分の置かれていた環境を冷静に把握できるようになったのだと思う。「お母さんも必死だったんだよ」とかなんとか言ってくる人もいるのかも知れないけど、糞は糞。糞は何回捉え直してもやっぱり糞なのだ。糞くそ言って申し訳ないが、糞を我慢して飲み込む努力を愛情とは呼ばないだろう。糞は糞、でも存在そのものは否定していない。だけど、糞を飲み込みことは出来ないので拒否する。それだけ。
糞の中にダイヤモンドを探せと言ってくる人がいるが、そんなもの探し尽くしたさ。探し尽くした結果、糞に見切りをつけて次なる鉱脈を探して旅立っただけだ。 それをお前も糞にまみれてともに汚物になりなさいと言ってくる人間の気が知れない。誰も泥舟ならぬ糞船からは下りるだろう。あなたはどうぞ、その糞船を後生大事にして生きていってくださいよ。私は下りる。
それは、誰の何にも隷属しないということだ。人間の尊厳を守ることだ。人であるなら当たり前のことだ。私は人で在りたい。それだけのことだ。
自分の出自や血縁など関係なく、余分な情を挟まずに観測した結果、糞は糞。人間的にありえない、他者を平気で踏みにじる人間たちが私の生家にはたくさんいたのだ。あれは、奴隷の家だった。奴隷が奴隷同士で権力争いをし、マウントを取り、支配する・されるでしか人間関係を構築出来ない、それしか知らない人たちだったのだ。贈り物を貰えば、自分が相手からどれほど優遇されているかを喜び、貰った自分の方があげた相手よりも優れていて偉いのだと錯覚し、自分が優遇されていないと知れば脅迫してでも自分の都合のいいように操作しようとする。自分の思い通りになることで「やっぱり私は凄いんだ」と慢心し、驕る…。それを家庭内で繰り広げることの、なんと愚かなことか。子は慈しむ相手ではなく、自分のいう事を聞く味方であり奴隷。いう事を聞かないから脅してでもねじ伏せる。そういう醜い奴隷たちだった。
もちろん、奴隷だって本当は人間になれるのさ。だけど自らすすんで奴隷を選択している者に、人間の言葉は届かない。人間がいくら「あなたも自由に生きなよ」と言ったところで「奴隷界でこれは自由だとされているもの」「奴隷界のより優秀な人間が推奨しているもの」のパターンの模倣しか出来ないようである。つまり、「自由に暮らしているとされる誰かのコピー」になる。それは自由なのではなく、自由風の何かであり、真に自分自身で選択しているのではない。その区別がつかないようである。それでは一生、自分自身には辿り着かないのに。
貰い物の多肉植物さえ干からびさせて枯らすほど世話のできない人間が「老後というのは家庭菜園をやるものなのだ」という誰かの何かを鵜呑みにして「家庭菜園やるんだ」と言い始めたりするのだ。ほとんど意味不明である。いや、別にやってもいいんだけど、それは本当にやりたいことではないよね?「老後はこうやって暮らすもの」という思い込みの上での行動だよね?だって水やりも草取りも虫もなにもかもあなたは大嫌いじゃないか。そんなにあなた自身を無視して行動してなにかが上手くいくはずがないのだ。そりゃ悪態もつきたくなるさ、あなたが、あなた自身を一度も尊重していないからだよ。あなたがあなたを尊重していないのに、誰があなたを大事にするというのか?その不満を誰かに優遇される事で埋め合わせしようとする。本当に愚かなことだ。私はもうそんな愚かな行為は見たくないのだ。悲しくなるから。もう何の声もかけたくないのだ。届かなさに絶望するから。
さて、植物愛からこんなところまで話が脱線してしまった。だけどそういう事なのだよ。植物を育てるようになってから余計に、自分の母親は自分に関心がまったくなかったのだなという事を知ったのだ。観察する根気も愛情もなく、ただ毎日漫然と水やりして置いとけばいいんでしょ?みたいな。そういう放置と過干渉で育ったのだと思い出す。
この春、母の日と誕生日プレゼントを兼ねて、母親と父親に小さな鉢植えを贈った。ステイホームで軒並みお店が閉まっていたのもあるのだが、植物を育てることでさっき書いたような何かを感じ取って欲しかったのかも知れない。きっとそんなことは彼らは思いもしないし、気がつくこともないだろうけど。
再度離れて暮らすようになって1年。私は最後に、届かないボールを投げた。
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