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強い組織の精神とは〜寓話から得る教訓

高校時代に吹奏楽部員に向けて当時の部長として書いた文章をそのまま添付します。寓話から得られる教訓から、本番前の組織の士気を高めるためのテキストです。結果、この年は全国大会2位の結果でした。

寓話・樽の中のワイン

山奥のユダヤ人の村に、新しいラビ(ユダヤ教における宗教指導者)が着任することになった。村人たちはラビが着任する日に、祝いの宴を開くことにした。ユダヤ教会堂の中庭に空の樽を用意し、前日までに村人それぞれが一瓶分の酒を樽の中に注ぎ入れておくことにした。当日までに樽はいっぱいになった。新任のラビが到着すると、村人たちはラビを住まいに案内した。そして、ユダヤ教会堂に案内して、祈りを捧げた。その後、祝いの宴となった。しかし、どうしたことだろう、樽から注いだ液体はまったく酒の味がしない。それはまるで水のようだった。長老たちは新任のラビの手前、戸惑い、恥じ入った。突き刺すような静寂が立ちこめた。しばらくして、隅にいた貧しい村人が立ち上がって言った。「みなさんに告白します。実は、みんなが酒を注ぎ入れるだろうから、わしが一瓶分ぐらい水を入れたって、誰にも分からないだろう。そう思ったんです」。間髪を入れず、別の男が立ち上がった。「実は、おれも同じことを………」。その後、次々に「わしもです」「おれもです」と言いだし、とうとう村人全員が同じことをしていたことが分かった。

『座右の寓話』より

寓話から得られる教訓

 この話の教訓は「自分一人ぐらいさぼっても………」が広がると組織は崩壊するということです。誰かのさぼりや手抜きは、それを尻ぬぐいする人がいる限りは、表面化してきません。しかしながら、尻ぬぐいをする人よりも、さぼる人や手抜きをする人の方が多くなると一気に問題が表面化してきます。
岡田武史(元サッカー日本代表監督)は、これの類話である「祭りの酒」をしばしば選手に聞かせるといいます。ある講演会で次のようなエピソードを披露しています。
「全員で声を出して体操!」という号令をかける。しかし、実際に声を出して体操をしているのは三分の一ぐらいしかいない。「お前たち、全員で声を出してと言わなかったか?」と聞くと、「いや、僕が声を出さなくても、誰かが出します」と答える。「お前なあ、全員がそう思ったらどうなるんだ。一人ひとりが〈自分のチーム〉だと思わなくてどうするんだ」
「みんなのチーム」というと聞こえがいいです。しかし、それは「自分一人ぐらい、少しぐらいさぼってもいいだろう」という甘えが隠れてはいませんか。「自分の汗と知恵がチームを支えている」という強い気持ちを一人ひとりが持つことそれが「自分のチーム」という言葉の真意だとおもいます。
(ここまで引用)
 これを今のB編成に重ねて考えてみてください。この点に関しては〇〇先生がおっしゃる通り、心のどこかで自分以外の誰かがやってくれるだろう。と言う考えが皆さんの心の中にありませんか。演奏面の例だとわかりやすいと思いますがそれ以外の例だとどうでしょうか。テンポ合奏などで率先して自分の意見を持っていますか。ひな壇を運び、パーカッションの手伝い、トラックの積み降ろしなどで「誰か他の人がやってくれるだろう」と思って人任せにしてしまうことはありませんか。納入で仮会計係の事前の忠告を「自分は聞かなくていい」と思っていませんでしたか。文化祭のTシャツの際には「自分くらいサイズが適当で間違っていても大丈夫だろう」と思っていませんでしたか。そのようなことがすべて「今の人任せな演奏」にもつながっているのだと思います。
しかし現在は、率先して頑張っている方が大半です。ですからあまりはっきり大きな問題として見えていません。しかし本文上記に

誰かのさぼりや手抜きは、それを尻ぬぐいする人がいる限りは、表面化してきません。しかしながら、尻ぬぐいをする人よりも、さぼる人や手抜きをする人の方が多くなると一気に問題が表面化してきます。

とあるように「自分一人ぐらいはやらなくていいや」と全員が思ったら、この大人数の集団は一瞬にして崩れます。だからこそ誰一人として「自分一人くらいはやらなくていいや」と言う考えは持ってはいけないのです。〈自分のチーム〉という強い気持ちが集まってできた「みんなのチーム」は無敵です。
今からでも遅くなんかありません。ジョイントもホール練習も残っています。気付いた時から変わればいいのです。三年生の方への感謝の気持ちも決して忘れないでください。頑張りましょう!!!!!!!!!!!!!!

参考文献・引用元

戸田智弘『座右の寓話』ディスカヴァー携書、2022年。


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