安東文吉の墓
子母澤寛作の次郎長小説
駿河遊侠伝の書き出し
駿河府中安東村に男あり。その名を西ケ谷文吉。東は三島、西は大井川までの間を縄張りとして身内の子分およそ二千。人「安東の文吉さん」と通称した
その安東文吉の墓が静岡市駿河区日蓮宗本覚寺にある
日本一首継ぎの親分と呼ばれ、兇状持ちでも理があると思った者にはヤミで通行手形をつくってやったり、なにかと便宜をはかったらしい
駿河といえばご存じ清水次郎長だが次郎長も若い時分はゴロ長と綽名される半可打ちで、イカサマの名人だったといわれる
その頃の次郎長が文吉の賭場でイカサマがばれて沼に沈められるところ、文吉親分じきじきの指図で命をたすけられたのだという
文吉親分に顔向けできる男になるまでは親分の縄張りには足を入れねえ、と次郎長は清水から西へさして旅をするとき、府中を通らず久能山をまわって掛川に出た
盃を受けた西尾治助や剣術の師匠小川武一とならんで、侠客次郎長をつくった重要人物
上州大前田英五郎とならんで天下の和合人といえる