子母澤寛作の次郎長小説 駿河遊侠伝の書き出し 駿河府中安東村に男あり。その名を西ケ谷文吉。東は三島、西は大井川までの間を縄張りとして身内の子分およそ二千。人「安東の文吉さん」と通称した その安東文吉の墓が静岡市駿河区日蓮宗本覚寺にある 日本一首継ぎの親分と呼ばれ、兇状持ちでも理があると思った者にはヤミで通行手形をつくってやったり、なにかと便宜をはかったらしい 駿河といえばご存じ清水次郎長だが次郎長も若い時分はゴロ長と綽名される半可打ちで、イカサマの名人だったといわれる
地下鉄落合駅から歩いて5分、早稲田通りに面した真宗源通寺。 墓の傍には曾孫の河竹登志夫が発起人となって建立された碑があり、そこには弁天小僧をモチーフにした自筆のイラストが刻まれているのだが‥。 このレリーフ、碑と墓の間20cmほどの隙間に面している上、膝ほどの高さに設置されているため、教えてもらわなければ発見することはほとんど不可能。 副住職に教えていただき、なんとかみつけることができた。本人の意向でわざわざそんなところに配置したのだとか。ユニーク。 若い副住職さんが頑張っ
埼玉県幸手市 浄土真宗東本願寺派 浄誓寺
善光寺門前権堂 秋葉神社境内にある国定忠治の墓参り 上州養寿寺の墓にも行ったが信州にも墓があるというのは不思議 八州廻りからのがれて信州に落ちるというのは上州博徒のルーティンであったようだし、山形屋一件にまつわる話か 権堂で上総屋という女郎屋を営んだ上総屋源七ももとは上州の人だった 近隣の方が建てたらしく中山某と彫り付けてある 忠治がはりつけになった時分、次郎長は売り出し中の30代 100年あまり経ってもあんた方の噂は人の口端にのぼってますよ おもしれえね
年の瀬でもお構いなし! ちょうどこの間岡田くん主演の映画燃えよ剣をみたばかりだし、タイムリーじゃん、ってんでJR板橋駅徒歩30秒のところにある近藤勇の墓にいってまいりました 近藤の墓は日本全国にあり板橋もその中のひとつですが、逆賊の汚名をそそぐため永倉新八の呼びかけで建てられたもののようです ちかくのお寺にもお墓があります 捕らえられたあと(自首説あり)板橋宿本陣で尋問を受け、ちかくの刑場で処刑された近藤の胴体が埋葬されたのがここ なあんと享年35! 鞍馬天狗や月形半平
大阪は興徳寺さんにあるほぼ元祖街頭宣伝請負業者、勇亀(いさみかめ)の墓参り 地蔵堂と大きな観音様が目を引くりっぱなお寺 明治のころはチンドン太鼓も楽士もなく、拍子木ひとつ持って辻々で口上を述べてまわったそうな 元祖東二代目〜と書いてある墓石を見てなんで二代目?とふしぎに思っていたら、飴売りから宣伝業者に転じた飴勝からかぞえて二代目、という意味なんだとか(林幸治郎さん談) お寺のおかみさんもなぜここに勇亀の墓があるのかはわからないらしく、元々このお寺にあったのか、火災等
静岡に行くついで、と言っちゃあ失礼かもしれないが次郎長が寄進した玉垣(石でできた神社の囲い)があるってんで行ってきた美濃輪稲荷神社 次郎長生家や梅陰寺の近所にあるたいへん立派なお稲荷さん おなじみのズラ〜っとならんだ鳥居をぬけて参拝をすませ照りつける日差しの中神社の周りをぐるぐる歩いてみつけました目当ての玉垣 明治時代のものなのでもうボロボロ。でも文字ははっきりと判別できてひと安心。 次郎長が養子に行った先の米屋甲田屋をはじめ地元有志の人たちの連名のなかに山本長五郎の名がど
次郎長一家の特攻隊長、小政の墓があるというのでツアーの合間をぬって行ってきた浜松大聖寺 宿泊した宿が小政と次郎長の因縁にからむ国領屋一家があった伝馬町だったりしてテンションが上がり、朝一番炎天下の中バス徒歩を駆使してお参り。 住宅地のど真ん中にある立派なお寺の墓地にずんずん踏み込んでいくと、あたらしい台座に乗っかった、明治四年と刻まれた古めかしい墓石が。 平成に土地開発で寺が移築された際に墓も新しくなったのだと推測 山本姓なのは次郎長の養子になったからなのか。 以下、
おれの父方のじいさんは海軍で南方へ行ったりした堅い職業の人で、そのまたじいさんは奥州米沢で八百松という造り酒屋を営んでいたこれまた四角四面の堅い人。 かと思いきや、裏表ないよであるのが人の常。馴染の芸者との間に男の子ができ、妾腹ということでその母子は家には入れてもらえず米沢から居をうつし福島県須賀川に身を落ち着けることに。母親は習いおぼえた三味線で女手ひとつ子供をそだてる三筋の世渡り。 母親の苦労の甲斐あって旧制中学を出た息子は食いっぱぐれのない米屋に勤めはじめるが、大正
有情非情のその声 みな歌に洩るることなし 草木土砂風声水音まで 万物の籠もる心あり 春の林の東風に動き 秋の虫の北に鳴くも みな和歌の姿ならずや 謡曲高砂の一片(藤原長能?) あまりにも美しいこの言葉
十条篠原演劇場は今年でオープン70周年 昨年先代社長が亡くなり三代目社長に代替わりして数ヶ月 初代社長は埼玉を地盤にした興行師で、父も興行師。 その後十条でトタン屋根の篠原演芸場を開場し小屋主となり、昭和三十年代には本格的な芝居小屋として建て替えた。 その後安来節の小屋だった木馬館を引き継ぎ、リニューアルして大衆演劇専用の劇場としてオープン。 いったんさびれた浅草で大衆演劇は根付かないと言われていたがその逆境をはねのけ、現在では大衆演劇といえば木馬館、といわれるまでの
露天商、いわゆるテキヤさんのことを神農さんと呼ぶことがあるけれど、これは近世以降医薬品や香具を売り歩いた香具師(ヤシ)の時代からつづく神農信仰にまつわるものだそうで、いわゆる職能神。 大工さんが聖徳太子を信仰するのと同じようなことですな。 神農とは中国由来の神様で、人身牛頭、手には草木を持ち獣の皮を着、みずから草木を食んでその効能をためしたといわれる。 そんな神農をまつってあるのが大阪道修町に鎮座する少彦名(すくなひこな)神社 医薬品、とくに漢方薬をあつかう業者も神農を
伊勢参りをすませて京伏見から大阪へくだる船中の旅噺「三十石」に登場する八軒屋浜 広沢虎造の寿司食いねぇでおなじみ江戸っ子と石松とのやりとりはこの落語三十石から移植された(と思う) こちらは落語とは逆ルートで、讃岐金毘羅代参をすませた石松は大阪見物の後この浜から船にのり、京都をへて草津追分の見受山鎌太郎に会い、故郷遠州で凄絶な死をとげる。 対岸には落語に登場する船歌の石碑もある。
浅草源空寺 幡随院長兵衛の墓(1622〜1657?) 仇敵水野の墓に行った次の日、ちょうど浅草へ行くことになったので訪れることができました。 父親は唐津藩士で元は武士、という設定が一般的なようですが真相は不明。 本名塚本伊太郎 幼少の頃、当時神田にあった幡随院の和尚にひきとられたことからこの二つ名がついたそうです。 妻おきんの父親が花川戸で口入屋(人材派遣業)を営んでいたことから稼業を継ぎ、男伊達の侠名とともに、家光治世の土木建築バブルに乗ってその名を知られるように
人は一代、名は末代 の名台詞でしられるお芝居 「極付幡随院長兵衛」 人入れ稼業を営む侠客、町奴長兵衛と敵対する旗本奴白柄組の頭目 「水野十郎左衛門」 この人の墓が中野の功運寺にあるというのでいってきました。 すみずみまで整備された浄土宗のお寺。 有名どころでいえば吉良上野介義介や林芙美子の墓もあります。 中野の早稲田通り界隈は大正の震災で移転してきたお寺が多く、近くのお寺には河竹黙阿弥の墓も。 案内板に水野家とあるもののおなじ区画に墓石がたくさんあってどれが十郎左衛