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クリシュナムルティ 努力から解き放たれて
私たちは無限の能力を持っており、それをどの方向に発揮することもできます――
それを用いて名付けえぬもの(nameless)を見出すこともできれば、地上に地獄を現出させることもできるのです。が、なぜか人間は憎悪と敵意を生み出すほうを好みます。
憎み、妬むほうがずっと容易であり、そして社会はより多くのものへの要求に基づいているので、人間はあらゆる種類の貪欲に駆られるのです。
かくして果てしない奮闘努力が続き、それが正当化され、気高いものとみなされるのです。
奮闘努力からも、意志からも、選択からも自由な、限りなく豊かな人生があります、が、私たちの文化全体が奮闘努力や意志の行為の結果であるとき、そのような人生を生きることはきわめて困難です。
ほとんどあらゆる人にとって、意志なしには死があるのみです。
ほとんどあらゆる人にとって、何らかの野心なしには人生は無意味です。
意志からも選択からも自由な人生があるのです。
この人生は、意志による人生が終わるときに可能になります。」
(『しなやかに生きるために J.クリシュナムルティ』)
ただ、「生きる」こと。何の意志もなく、ひたすらに今、ここにある生を生きる、ということ。そんなことは可能だろうか。
人間たるもの、何かを成し遂げるために、成長するために、たゆまなき努力、奮闘によって成長し続けながら生きよ。物心ついた時からそう刷り込まれる。
生存本能、存続本能、存在意義を見出すべく奮闘する現人類。地球上ほぼ全域を埋め尽くす大小様々な人間の共同体。多くの動植物の生命を捕りながら拡大し続け、はびこる。当然至極のように。しかし、なぜそうまでして存在し続ける?
生きることは苦しみに満ちている。初めから存在しなければ、それにこしたことはないのではないか。
「生きることは苦しみだ」と父は言った。仏教を信仰していた父。輪廻転生、因縁の話など幼い私に語り聞かせ、そんな話にある種の共感を感じるようになった。いや、それは今の自分のベースになっている?
常に己を空しくする、とクリシュナムルティは説く。何をも自身の内にすまわせず、様々な欲求、思考、感情を手放し、空っぽにしなさい、と。経験は古い楔、囚われの因。瞬間を生き、瞬間に死ぬ。常に新しくあること。自由とはそのようなもの。と。
川の流れはひとときも同じではなく、すべては移ろいゆく。
昨日の風に吹かれて思ったことは、今日の風に吹かれてあとかたもなく消え去る。
自分は何者でもないということ。この世界の不思議。ただそのことに深く感じ入る。
すべては幻なのだろうか。追及の果てに人はどこにたどりつこうとしているのだろうか。