人間の練習
人間のふりができない。元気に挨拶する。機嫌良く人に接する。大きな声でハキハキと喋る。自信を持って堂々と喋る。通りの良い発声を心がける。大げさなリアクションを取る。相手の目を見て話す。相手の名前を呼ぶ。相手に興味を示す。相手を褒める。自分から話題を振る。ほどよく自己開示する。共感を示す。ことコミュニケーションに関して、社会に生きる人間として期待されていそうな振る舞いがことごとく苦手である。
「情けは人の為ならず」ということわざが示すとおり、日常のちょっとした優しさや気遣いがコミュニティでの好感度を上げ、巡り巡って、自分が生きやすい生態系を形成するのに役に立つのだと頭で理解できていても、体が言うことを聞いてくれない。人間らしく振る舞うことは、私にとって貯金や節約、早寝早起き、ダイエット、運動、掃除、断捨離、勉強、読書などと同じく、「したほうが良いとわかっていてもできないもの」のひとつに数えられる。
「できない」というより「する気がない」と言ったほうが正確かもしれない。なぜする気がないのか。その理由は、社会のなかでうまく立ち回ることよりも、なるべく社会と関わらないで生きていくことのほうに興味関心があるからだ。要するに他者とうまくやっていくことにインセンティブが感じられないのである。そもそも一刻も早く隠居を始めたいと考えているような人間だ。もし仮に私がサイコパスであれば目的遂行のために感じの良い振る舞いも辞さなかったと思うが、私はサイコパスではない。残念なことに。
それでも、四十近くにもなって最低限の社会性すら備えずにのうのうと生きてしまっており自分でも情けなく感じているのですよとでも言いたげな素振りを見せたりすることもある。しかしこれは「一応やってます」というアリバイ作りのためにポーズに過ぎない。内心では「年相応っていかにも人間っぽい考え方だよなあ」と思っている節がある。
年相応というパラメータで他人の振る舞いを評価していると、そのうち「爺さん、良い歳してまだ生きてんのかよ」という心無い言葉として返って来そうな予感がするから、最近はこの言葉を使わなくなった。当方としては、死ぬまで未就学児気分のままでいる腹積もりだ。こっそりと。
特に何もせずとも毎月30万円程度の額が銀行の口座へと振り込まれてほしいと願っているのはこの世界で私ぐらいのものだろうか。「誰だって思うわ。馬鹿か」と吐き捨てた人に提案してみたい。誰もが願うようなことなのであれば、皆で協力して毎月自動的に30万円が口座に振り込まれるような世界を実現していこうよ、と。
人間のふりができない者はこの世界において不利な戦いを強いられている。肩をすくめてそんなことを嘆くと、「誰だってそうだろうが。それでも皆歯ァ食いしばって必死に人間のふりしてんの。甘えたこと言ってんなよ」とお叱りを受けるに違いない。そこで私は次のように提案してみたい。無理をして必死に取り組むぐらいなら、皆せーので人間のふりなんかやめちゃいませんか、と。
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