黙示録における「勝利を得る者」についての考察

七つの教会に対して語られた「勝利を得る者」の記述について

それぞれの教会への手紙ごとに七つの内容が語られているが、すべて「勝利を得る者」という言い方で統一されているので、それぞれの手紙が送られた教会にだけ当てはまる言葉ではなく、七つの「勝利を得る者」の記述はすべての教会(のクリスチャン)に当てはまるものとして取るべきである。

1.エペソの教会

エペソの教会に対しては、「神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう」と言われている。これは黙示録22章における新しいエルサレムの描写に対応している。新しいエルサレムにはいのちの木の実があり、22:14、22:19にあるように、それに与れるかどうかが非常に重要なこととされている。

 いのちの木は創世記において、エデンの園の中央にあった木として記されている。善悪の知識の木の実を食べて罪を犯したアダムとエバはエデンの園を追放されたが、それはいのちの木から食べることができなくなるということであった。エデンの園の「園」という語は七十人訳では「パラダイス」と訳されている。創世記における地上のパラダイスは失われたが、天上のパラダイスとして回復する。

2.スミルナの教会

スミルナの教会に対しては、「決して第二の死によって損なわれることは無い」と言われている。「第二の死」は黙示録20:6で再び出てくる語である。「第二の死」とは、同じく20章に記されている「大きな白い御座」の裁きにおいて、火の池に投げ込まれることとして説明されている(20:11-14)。21:8でも第二の死についての説明がある。悪者が「火と硫黄との燃える池」で受ける分、それが第二の死である。勝利を得る者は、そこに入ることを免れる。

 これがスミルナの教会への手紙に書かれていることは、スミルナの教会に与えられた試練が「死に至るまで忠実」であることを求められる試練だったことと関係がある。彼らは肉体の死に至るほどの激しい迫害を受ける。しかし、彼らが受ける死は肉体までのことであって、霊魂を滅ぼす第二の死は彼らを滅ぼすことは無い。

 スミルナの教会の試練は、スミルナという地名によっても表されている。スミルナとは没薬という意味であり、死あるいはそれに至るような苦難と関係がある。

3.ペルガモの教会

ペルガモの教会に対しては、「隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかは誰も知らない、新しい名が書かれている」と言われている。

「隠れたマナ」とは何だろうか。出エジプトのイスラエルに与えられた食物がマナであったが、黙示録では「隠れたマナ」であるので、旧約のマナそのものではなく、それに類似した性質を持つ別のものである。ヨハネ6章で、イエス様はご自身をイスラエルの民が荒野で食べたマナにまさる、天から下ってきた、世にいのちを与えるまことのパン、いのちのパンであることを示された。マナはイエス様の型であり、「隠れたマナ」もイエス様に関係している。

「私はいのちのパンです。あなた方の先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下ってきたパンで、それを食べると死ぬことがないのです。私は天から下ってきた生けるパンです。誰でもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。また私が与えようとするパンは、世のいのちのための、私の肉です」ヨハネ6:48-51

イエス様と深く関係し、なおかつ「隠れた」という性質を持っていることについては、コロサイ2:3の「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです」というみことばが思い起こされる。

キリストを学び、キリストに倣うことは隠されたすべての知恵と知識とを自分のものとして受けることであり、これこそ「隠れたマナ」に与ることの意味にふさわしい。

隠れたマナが隠れているのは、信仰をもって悪を退けつつ求めなければ見いだす事のできないものだからである。

「隠れたマナ」は黙示録の他の個所には出てこないため、いのちの木や第二の死のような、後の方に出てくる記述との対応が判然としない。ニコライ派の教えを奉じている人がいるとあるので、それとの関連で民主的な教会運営においては非難されても、実際にはキリストに忠実であるということを表しているのかもしれない。

「白い石」も「隠れたマナ」と同じく、この個所だけに出てくる。その意味については諸説ある。

「「石」(プセーロン)は新約では他に使徒26:10のみで用いられ「票」と訳されている」(岡山、102)

「私は、多くの生徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票(プセーロン)を投じました」使徒26:10

「当時、裁判における判決は石の黒白によってなされ、白い石は無罪を示していた。たとえ地上の法廷で有罪とされても、天の最終的な審判において、神の民はキリストのゆえに無罪とされる」(岡山、102)

 この「白い石」は、2:14の「つまずきの石」と対比されていると思われる。偶像や不品行のような汚れに陥らなかった聖潔を証明されるということかもしれない。

 白い石には「新しい名」が書かれている。石に名が書かれているというのは大祭司のエポデの石と肩当ての石に12部族名が書かれていたのを思わせる。白い石に書かれた新しい名をそれを受ける者以外「知らない」ことと、「隠れたマナ」が「隠れた」ものであることは関係がありそうだ。それはイエス様の「名を堅く保った」「忠実な証人」である勝利者だけが得ることができる。

「そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは、【主】の口が名づける新しい名で呼ばれよう」イザヤ62:2

「あなたがたは自分の名を、私の選んだ者たちの呪いとして残す。それで神である主は、あなたがたを殺される。ご自分のしもべたちを、他の名で呼ばれるようにされる」イザヤ65:15

「それを受ける者のほかは誰も知らない、新しい名」という表現は、19:12と似ている。

黙 19:12 「その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。」

これはイエス様についての描写であり、ご自身のほか誰も知らない名は王冠に書かれていた。恐らく白い石に書かれる「新しい名」とはイエス様の名である。フィラデルフィアの教会に告げられている内容とも重なっていると考えると、それは父なる神の名でもあり、新しいエルサレムの名でもあると思われる。

4.テアテラの教会

 テアテラの教会に対しては、「諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。また、彼に明けの明星を与えよう」と言われている。まとめると、①諸国の民を支配する権威と②明けの明星の2つが与えられる。

治める(牧する)にあたって「鉄の杖」を用いるということについては、12:5、19:15にイエス様がそうされるということが記されている。これは「わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである」と言われているのと対応する。イエス様が鉄の杖で牧するように、教会の勝利を得る者も鉄の杖で諸国の民を支配する。

「明けの明星」は22:16でイエス様の自ら名乗る称号として登場する。

「「明けの明星」とは明け方まだほの暗い時にひときわ明るく輝く星、金星であり、闇が去り光の朝が来ることの象徴である。(2:28参照)。

 イスラエルの救い主は「1つの星」と呼ばれている(民数24:17)。

「夜はふけて、昼が近づい」ている(ローマ13:12)。

 やがて「夜明けとなって、明けの明星」が上り(Ⅱペテロ1:19)、すべてが明らかになるまで、しばらくの間地上では試練と困難の時が続く。しかし忍耐して「勝利する者」には、キリスト御自身が「明けの明星」として与えられる。」(岡山427-428)

 22:16では「輝く明けの明星」という称号は「ダビデの根、また子孫」という称号とともに記されている。民数記の「ヤコブから一つの星が上り」という預言は、イエス様の王としての側面を強く描いたマタイの福音書において東方の博士たちを導いた星とも関わっている。その星が上ることは、「明けの明星」であり「イスラエルの王」である方、すなわち「ダビデの根、また子孫」である方の到来を告げるものであった。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、その方の星が上るのを見たので、拝みにまいりました」(マタイ2:2)

民数記の預言は「星が上る」こととともに「イスラエルから一本の杖が起こり」という「杖」についての言及も併記されている。「杖」とは王権による支配を表しており、「星」と「杖」との併記は、「星」についての預言が「杖」についての預言とともに王権の到来に関わる預言であることを示している。

5.サルデスにある教会

 サルデスの教会は、勝利を得る者は「このように白い衣を着せられる」とある。その直前には「サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる」と書かれており、ここでの「勝利を得る者は~」もやはりサルデス教会の実際の状態に対応した言葉と分かる。

 サルデス教会の具体的な罪についてははっきり書いていないが、「生きているとされているが、実は死んでいる」とあり、その状態が「衣を汚している」状態のようである。ともかく、サルデス教会の状態と勝利を得る者への語りかけの内容は対応している。

6.フィラデルフィアにある教会

 フィラデルフィアの教会の箇所では、勝利を得る者は神の聖所の柱とするとある。これは次の文の「彼はもはや決して外に出て行くことはない」ということの象徴的表現のようである。神の都の中にどっしりと堅く据えられて取り除かれないということだろう。

 フィラデルフィアの教会に対しては「誰も閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた」と言われている。門とは何か。神の都に入る門の事である。それで彼らは神の都に入り、そこから「もはや決して外に出て行くことはない」。斯くしてここでも教会の状態と勝利を得る者の報いの内容が対応する。

7.ラオデキヤにある教会

 ラオデキヤの勝利を得る者への報いは「わたしとともにわたしの王座につかせよう」。それは「わたしが勝利を得て、父とともに父の玉座についたのと同じである」とあるが、この「わたしが~なのと同じである」という表現はテアテラの「鉄の杖による統治」と共通である。どちらも王権・支配権に関わる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?